「高校生平和大使」も到着
被爆者や被爆2世などの一行も到着
宿泊ホテルのクリスマスツリーに折り鶴
授賞式の流れ
ノーベル平和賞のメダルと賞状
日本被団協 被爆者の声を68年にわたって世界に発信
【代表委員 田中熙巳さん】90歳超えても精力的に活動
【代表委員 田中重光さん】被爆者の要望伝えてきた
【代表委員の箕牧智之さん】米国で若者に被爆証言
広島と長崎の原爆被害とは
授賞式は日本時間の10日午後9時から行われ、3人の代表委員がメダルや賞状を受け取ったあと、田中さんが演説をします。演説では13歳のときに長崎で被爆し、伯母や伯父など5人の親族を亡くした自身の体験などをもとに、核兵器の非人道性や被爆の実相を伝えることにしています。代表団は今月12日までオスロに滞在し、それぞれの被爆者が各国メディアの取材に応じたり、地元の学校で被爆体験を証言したりする予定で核の脅威が高まるなか、核兵器の廃絶などを世界に訴えることにしています。
オスロ空港で取材に応じた箕牧智之代表委員は「オスロに来ることができて大変光栄に思う。戦争、核兵器大嫌い、平和が一番。この3日間、一生懸命予定をこなしたい」と話していました。また、田中重光代表委員は「ノーベル平和賞を受賞したということは亡くなった先人たち、すべての被爆者が受賞したことだと思っている。今は核兵器が1万2000発以上存在しており、2度と被爆者を作らないために頑張っていきたい」と話していました。
ノルウェーで開かれる日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会のノーベル平和賞の授賞式に出席する「高校生平和大使」が日本時間の8日、オスロ空港に到着しました。核兵器廃絶を求める署名を国連に届ける活動を続けてきた「高校生平和大使」の代表で、高校2年生の4人は、10日、ノルウェーの首都オスロで開かれる日本被団協のノーベル平和賞の授賞式に出席します。4人は、日本時間の8日午後7時ごろ、引率する元「高校生平和大使」の大学生などとともにオスロ空港に到着し、取材に応じました。長崎県の被爆3世の大原悠佳さんは「『被爆体験者』や『在外被爆者』といった、いまも残る核兵器の問題を訴えていきたい。核兵器は1発使われただけで、一生、人々を苦しませることを伝えていきたい」と話していました。同じく長崎県の被爆3世の津田凛さんは「被爆の歴史を過去のものと捉えられたらもうそこで終わりなので、後遺症があることや『被爆体験者』と呼ばれる被爆者と認められない方々がまだいることを伝えたい」と話していました。広島県の被爆4世の甲斐なつきさんは「曾祖父と曾祖母の思いや経験をたくさんの人に伝えたい。現地の高校生や若者の価値観や思いを受け取り、これからの活動に生かしていきたい」と話していました。熊本県の島津陽奈さんは「被爆地ではないところでも平和活動をしている若者がいることを伝えたい。平和や戦争、それに原爆に関するディスカッションを通して、現地の高校生の価値観を知り、日本でも生かしていきたい」と話していました。4人は、10日の授賞式に出席するほか、今月12日までオスロで現地の若者と核問題について議論するイベントなどに参加する予定です。
日本被団協の代表団とは別に、長崎や広島などから現地を訪れる被爆者や被爆2世などの一行が日本時間の8日午後9時半ごろ、オスロ空港に到着しました。一行は、授賞式の様子を現地のパブリックビューイングで見守るほか、市民やノルウェーの国会議員に被爆体験を証言する活動などを行うことにしています。空港内で取材に応じた長崎の被爆者の三田村静子さんは「いまは戦争があるので、やはり戦争はだめだと、核兵器はだめだと世界の人に伝えたい。そして、手を取り合って、一生懸命頑張ろうと言いたい」と話していました
日本被団協の代表団が宿泊するオスロ中心部のホテルでは、ロビーに毎年設置されるクリスマスツリーに、ことしは特別に折り鶴が飾られています。高さおよそ3メートルのもみの木のクリスマスツリーには、滞在する被爆者たちを迎えようと、茶色やベージュの数百羽の折り鶴が松ぼっくりなどといっしょに装飾されていて、訪れた人たちを楽しませています。このホテルによりますと、ノーベル平和賞を受賞する日本被団協に敬意を示すため、団体のシンボルマークである折り鶴を飾ることにしたということです。
ノーベル平和賞の授賞式は、日本時間の10日午後9時から、ノルウェーの首都・オスロの市庁舎で行われます。授賞式には田中熙巳代表委員、田中重光代表委員、箕牧智之代表委員が登壇する予定で、3人は、式が始まる5分ほど前にノーベル委員会のメンバーとともに市庁舎に入場します。《式次第》式は1時間あまりで、日本時間の午後9時にノルウェー王室のハラルド国王、ソニア王妃、ホーコン皇太子、マリット皇太子妃、それにオスロ市のリンボー市長が入場します。そして午後9時10分ごろ、ノルウェー・ノーベル委員会のフリードネス委員長が受賞理由などを説明します。このあと午後9時半ごろにフリードネス委員長からメダルと賞状が授与され、日本被団協を代表して、3人の代表委員が受け取る予定となっています。午後9時40分ごろには、田中熙巳代表委員が20分間、受賞の演説を行い、自身の被爆体験や、核兵器の廃絶などを世界に訴えます。最後に、3人の代表委員がハラルド国王をはじめとするノルウェー王室から直接、祝福を受けます。《音楽の演奏も》式の合間には、合わせて4回の音楽演奏が予定されています。演奏はノルウェーのソプラノ歌手のマリ・エリクスモーンさん、ドイツのベルリンを拠点に活動する三味線を用いたバンドの「Mitsune 蜜音」、ノルウェー民謡やオペラ楽曲などを融合させた音楽が特徴とされる「ホーコン・コーンスタッド・トリオ」というグループです。このうち「Mitsune 蜜音」は、公式サイトなどによりますとメンバーに日本人も含まれ、日本の伝統的な民謡をベースにした楽曲などをヨーロッパを中心とした各国で披露してきたということです。毎年、ノーベル平和賞の授賞式では音楽の演奏が行われていて、去年、イランの人権活動家のナルゲス・モハンマディ氏が平和賞を受賞した式では、イラン出身の歌手などが楽曲を披露しています。
ノーベル平和賞の公式ホームページなどによりますと、現在のノーベル平和賞のメダルは18金製で、直径は6.6センチ、厚さは5ミリ、重さは196グラムだということです。1901年にノルウェーの彫刻家がデザインし、表面にはアルフレッド・ノーベルの肖像が描かれ、その周りにはノーベルの名前と生まれた年、亡くなった年が刻まれています。裏面には肩を寄せ合う裸の男性3人が描かれ、その周りにはラテン語で「人類の平和と友愛のために」と刻まれていて、デザインは一貫して変わっていないということです。毎年、ノーベル平和賞の受賞者が発表されたあとに、ノルウェー造幣局が鋳造していて、メダルの縁には受賞者の名前と受賞年が刻まれるということです。また、ノーベル平和賞の賞状には、「ノルウェーのノーベル委員会は、アルフレッド・ノーベルが残した遺言の条項に従い、ノーベル平和賞を授与した」と、ノルウェー語で書かれています。装丁は、ノルウェーの現代アーティストに依頼して毎年新たにされ、賞状の製本を手がける職人が、メダルのケースも作っているということです。
日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会は、広島や長崎で被爆した人たちの全国組織で、核兵器廃絶を願う被爆者の声を68年にわたって世界に発信してきました。日本被団協が結成されたのは広島と長崎に原爆が投下されてから11年後の1956年です。当時は、日本のマグロ漁船、「第五福竜丸」の乗組員が、太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で被ばくしたことをきっかけに国内で原水爆禁止運動が高まりを見せていました。結成の宣言で、「人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません」と訴えました。1984年には国による原爆被害の補償と核兵器の廃絶を求めた「原爆被害者の基本要求」を策定し、活動の柱となっています。原爆被害の実相を伝えるため積極的に海外でも発信を行い、1982年には代表委員の山口仙二さんが、国連の軍縮特別総会で被爆者として初めて演壇に立ちました。14歳の時に長崎で被爆した自身の経験を語り、やけどを負ったみずからの写真を示しながら、「ノーモア ヒロシマ ノーモア ナガサキ ノーモア ウォーノーモア ヒバクシャ」と訴え核兵器の廃絶を迫りました。
その後も、日本被団協は、国連や世界各地で原爆の写真展を開くなど地道な活動を続け、「ヒバクシャ」は世界に通じる言葉となりました。原爆投下から60年となる2005年には、ノーベル平和賞の有力候補として挙げられ、受賞は逃したものの、ノーベル委員会の委員長が、「長年、核廃絶に取り組んできた」と敬意を表しました。アメリカのオバマ元大統領が2016年に現職の大統領として初めて広島を訪問した際は、代表委員の坪井直さんが「原爆投下は人類にとって不幸な出来事だった」と直接伝えました。さらに核兵器廃絶に向けた国際的な取り組みにも関わり、2017年に採択された核兵器禁止条約の交渉会議では、およそ300万人分の署名を集めて目録を提出し、条約の採択を後押ししました。条約の前文には、「被爆者が受けた容認し難い苦しみに留意する」、「被爆者が行っている努力を認識する」として、被爆者に寄り添うことばが盛り込まれました。そして、すみやかな核兵器の廃絶やすべての国が核兵器禁止条約に参加することを求める「ヒバクシャ国際署名」を続け、最終的に1370万人分あまりの署名を国連に提出しました。近年はオンラインを活用して被爆者の証言を伝える取り組みを進めているほか、2022年に開かれたNPT=核拡散防止条約の再検討会議で被爆者がスピーチを行うなど、核兵器の恐ろしさや悲惨さを証言し、核廃絶の必要性を世界に訴え続けています。一方、被爆者の高齢化が進み、かつてはすべての都道府県に日本被団協に所属する団体がありましたが、これまでに11の団体が解散・休止を余儀なくされています。こうした中で被爆者の子どもの「被爆2世」や支援者などが活動に関わるところが増えつつあり、次の世代へと引き継ぐ動きも広がっています。
田中熙巳さんは、日本被団協の役員の中で最高齢の92歳です。13歳だった1945年8月9日、長崎市に原爆が投下され、爆心地から3キロあまり離れた自宅にいた田中さんに大きなけがはありませんでしたが、爆心地近くにいた伯母や伯父など5人の親族を亡くしました。原爆投下の3日後、伯母たちの安否を確認するため爆心地近くを訪れとき、多くの遺体と、救援もないまま痛みに苦しみ亡くなっていく人たちを見て、このような惨状は二度と起こしてはいけないと強く感じたといいます。大学を卒業後、工学系の研究に取り組むかたわら被爆者運動に参加し、日本被団協の事務局長を20年にわたって務めました。2016年に当時のアメリカのオバマ大統領が現職の大統領として初めて広島市を訪れた際は平和公園での献花に立ち会いました。その翌年、代表委員に就任したあとも国内外で核兵器の廃絶を訴えたり、広島や長崎で被爆した人たちの原爆症の認定をめぐって基準の見直しを政府に求めるなど90歳を超えても精力的に活動を続けています。ノーベル平和賞の受賞が決定した際には、「核兵器は、絶対に使われてはいけない。被爆者は高齢化しても若い世代が運動を引き継いで大きな声で訴え続けてほしい」と話していました。
田中重光さん(84)は、長崎市に隣接する現在の長崎県時津町で生まれました。被爆したのは、爆心地から6キロほど離れた自宅で、当時4歳だった田中さんに直接的なけがはありませんでしたが、強い光と爆風が吹いたことを覚えているといいます。みずからの「赤い背中」の写真を掲げて国連などで核兵器廃絶を訴えた被爆者の谷口稜曄さんが2017年に亡くなり、そのあとを継いで日本被団協の県内の被爆者団体の代表に就任し、その翌年には、日本被団協の代表委員に選ばれました。その後は、被爆の実相を伝える子どもたちへの語り部活動を続けているほか、毎年8月9日の「長崎原爆の日」に総理大臣と面会し、核兵器禁止条約への署名・批准など被爆者の要望を伝えてきました。ノーベル平和賞の受賞決定の際には、「先輩たちは偏見、差別、口には出し切れない苦労をして運動を続けてきた。本当に感謝したい」と亡き被爆者への思いを口にしていました。
箕牧智之さん(82)は、1942年に東京・板橋区で生まれ、東京大空襲をきっかけに、父親のふるさとの広島に疎開しました。原爆投下当時、箕牧さんは3歳で、爆心地からおよそ17キロ離れた現在の広島市安佐北区の自宅にいました。広島駅の近くで働いていた父親を捜すため、原爆投下の翌日、母親と1歳の弟とともに広島市内に入って被爆しました。異様な臭いが漂っていたことを鮮明に覚えているといいます。おととし(2022)、広島の被爆者の先頭に立ってきた坪井直さんのあとを引き継いで日本被団協の代表委員に就任し、核兵器禁止条約の2回目の締約国会議が行われた際には、アメリカ・ニューヨークに渡って会議を見守りながら、現地の若者に被爆証言を行うなど活動を続けてきました。今回、ノーベル平和賞の受賞が決まった際は、「夢の夢。うそみたいだ」と、ほおをつねって、涙を流して喜んでいました。
広島と長崎に原子爆弾が投下されたのは79年前の1945年8月です。8月6日、アメリカ軍の爆撃機から広島市に投下された原爆は、上空およそ600メートルで爆発し、爆風や熱線によって半径2キロ以内にあるほとんどの建物が破壊されました。爆風と熱線、それに放射線によってその年だけでおよそ14万人が死亡したと推計されています。8月9日には長崎市にも投下され、昭和20年だけで7万人以上が亡くなりました。爆心地では地表面の温度が3000度から4000度に達したと推定されています。被爆直後には目立った外傷がなくても、当時受けた放射線によってその後、白血病やがんなどを発症する被爆者もいます。人類史上、核兵器が実際に使用されたのは広島と長崎だけで、その影響はいまも続いています。
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