「人」との練習を一切やめた
関西将棋会館の棋士室には、いつも若手棋士や奨励会員が集まってくる。山崎隆之、糸谷哲郎、稲葉陽など関西を牽引する若手が盤を挟んで互いを磨き合う。ある時期、ふと誰かが言った。
「豊島さん、本当に見なくなったね」
稲葉陽(現八段)は、豊島と何年もVS(一対一の練習)や研究会を行ってきた。2015年に自身が第4回電王戦出場を決めた際に、対策としてしばらくソフトを使った研究に集中しようと思った。
そのことを豊島に伝えると「そうなんだ。自分もちょうど研究会をやめようと思っていたんだ」と言われる。稲葉としては電王戦が終わるまでのつもりだった。そのときは豊島が何年にもわたって、研究会やVSを休止することになるとは思わなかった。
それまで豊島は月に十数回の研究会を行ってきた。関西の棋士の中でも1、2位の多さである。それを2015年秋頃に、すべてやめた。
転機になったのは、前年の第3回電王戦出場である。そのとき豊島は23歳、B級1組七段。棋界の未来を担う若手筆頭の棋士が、自らコンピュータとの対戦を志願した。そしてソフト「YSS」と対戦して勝利。出場棋士5人の中で、コンピュータに勝ったのは豊島だけだった。
電王戦当時、筆者は豊島に取材している。取材で会った彼は、ピュアな空気感を漂わせる青年であった。まだ高校生くらいに見える儚さがあった。豊島は当時このように話している。
「立候補したのは、自分自身のためです。普通にやっていてもタイトルを獲って、棋戦優勝できるとは思っていません。(ソフトとの対戦は)リスクはありますが、負けるのを恐れていても仕方がないと思います。コンピュータ対策をすると、これまで自分が否定してきた手も指さなければならなくなる。いままで人間同士の将棋でやってきたことをちょっと変えなければならないので」
電王戦の後、すぐにソフトでの研究にのめり込んだわけではない。当時は最先端のソフトは電王戦に出場した棋士にのみ貸し出されていた。それを使って普段の研究に使うのは、他の棋士に対して申し訳ない気がした。
フリーソフトの「Apery(エイプリー)」を使えるようになったことが、ソフトでの研究に踏み切るきっかけになった。自分の判断が正しいとは思っていたが、迷いがなかったわけではない。実戦を一切せずにコンピュータと向き合って、「これでいいのか」と考えることは多かった。
豊島九段は「ジェネラリスト」
糸谷哲郎八段もVSをしていた一人である。「豊島さんは棋士室にずっといたイメージがあるので、来なくなって違和感はありました」。豊島に影響を受けて、ソフトでの研究に絞った若手棋士もいる。
豊島はどんな存在かと糸谷に問うと「年下の天才」と答えた。
「彼はジェネラリストだと思うんですよ。どんな戦型でも指せるし勝てる。将棋って独創派と研究派があって、豊島さんは間違いなく研究派なんですよ。誤解を抱かせると申し訳ないですけど、この戦法で勝ちたいとか、そういうこだわりはあまりないと思う。逆にそういうものは余計なものだと捉えているかもしれないですね。勝つためには、どんな方法でも努力するタイプだと思います」
畠山鎮八段は、奨励会幹事を務めていたとき「この子はあまり厳しく追い込まないほうがいいかもしれない」と思った。
「小5で2級でしたが、将来強くなるなと思っていました。ただ物静かな反面、自分の将棋観が崩れたときにイライラして必要以上にもがいている。そんな脆さがあった」
指導棋士だった土井春左右氏(写真右)と。豊島九段が5歳の頃から小学校3年生で奨励会に入会するまで師事した(写真:『絆―棋士たち 師弟の物語―』より)四段には間違いなくなるだろう。だがA級、タイトルを獲るかという視点で見たときに大丈夫だろうか。「傷ついて将棋との距離を置いてしまったら、普通の棋士になってしまうかもしれない」。そう感じていた。
ソフトがない時代だったら、豊島はもっと早くタイトルを獲っていたと畠山は思う。ソフトとの距離感で悩み、自分を追い込みすぎてしまったのではないか。対局や感想戦の様子を見ていると、「誰を相手に戦っているのだろう」と感じることがあった。
家に籠って研究し続けることは、精神的にもつらい。コミュニケーションのない孤独な作業だ。畠山は、豊島は賭けたのだと言う。
「ソフトという人間よりもミスの少ないものに。もしかしたら、それによって潰れるかもしれない。でも、絶対これで強くなるんだと」
最後にこう言った。
「未だにそれに賭けきれない棋士が、多いのではないか」
豊島九段の変化
豊島は語る。
「高校時代は、学校が終わるとずっと棋士室にいました。クラスの友だちと遊ぶことは、ほとんどなかったですね。
独りで将棋の研究をしていても、寂しさは感じません。コンピュータも手を示したら返してくれるので(笑)。電王戦の後しばらくは、ソフトは友だちみたいな感覚だったかもしれません。いまは先生みたいな感じですけど。
ソフトも使っていくうちに、どういう思考をしているのかわかってきます。昔はよく間違えることもあったので『さすがにそれは、ないんじゃないの』とか。思考といっても計算しているだけなんですけどね。
コンピュータは局面の検討に使っています。評価値で示してくれるのが刺激的というか。でも人間と指すほうが、圧倒的に楽しいです。
いまは自分の棋力が伸びていると思って、将棋を指しています。でもそれが下り坂になったら。35歳、40歳になって、だんだん勝てなくなったときに、それでも頑張るということがどういうことなのか。続けていけるのかと、よく考えます。師匠(桐山清澄九段)の将棋を見ていたら、やっぱりすごいなと思います」
豊島にとって5度目のタイトル挑戦が2018年夏に巡ってきた。第89期ヒューリック杯棋聖戦は、羽生善治がタイトル通算獲得100期をかけた防衛戦でもあった。
前夜祭の話題は羽生が中心だったが、豊島にはそれはむしろありがたかった。「これまでは自分が初タイトルを獲るかと注目されてきました。(違う雰囲気の中で)流れが変わるかもしれないと思いました」。豊島が先行した五番勝負は、第4局で羽生が勝ち、最終局へともつれ込んだ。
初めてタイトル戦に出てから7年半がたっていた。その間に、関西若手から糸谷哲郎が竜王、菅井竜也が王位を獲得した。斎藤慎太郎も前年の棋聖戦で羽生に挑んだ。斎藤は豊島が20歳で王将に挑戦したとき、まだ三段リーグで、第4局では記録係を務めていた。
20代前半は、負けてもまた挑戦できると思っていた。だが棋士のピークは25歳くらいに訪れるとも言われる。早く結果を出さなければという気持ちが強くなった。チャンスは何度もあった。24歳で王座、25歳で棋聖、27歳で王将に挑戦。しかし、いずれも敗れた。
「自分はこのままタイトルを獲れないんじゃないか」
そんな不安が心をよぎった。
棋聖戦の2カ月前、王座戦二次予選で都成竜馬五段(当時)との対戦があった。その様子を棋士室のモニターで観ていた畠山は「今日の豊島さんは落ち着いていて、よい姿勢ですね」と言った。張り詰めた空気がない。なにかフワッとした丸いものに包まれた感じがした。この対局に豊島は敗れたが、感想戦で互いの読み筋を交わし合う姿は楽しそうだった。
豊島に変化を感じたのは畠山だけではない。棋聖戦が開幕する一月前、豊島は地元愛知県の岡崎将棋まつりに参加した。毎年多くの棋士が出演して、2日間にわたってファンを楽しませる。
前夜祭の後、若手棋士たちが集まって飲み交わすのが恒例になっていた。室谷由紀(女流三段)は「豊島さんは来てくれないだろうな」と思っていた。彼がこうした席に顔を出すことは何年もなかった。だがこの日は集まりの場に来て酒を口にしないが楽しそうに過ごした。室谷の中でそれは驚きだった。
豊島にその頃の気持ちを聞いた。
「余裕というか……(タイトルに縛られるのは)もういいかなと思っていたかもしれません(笑)。やれることをやって、どうなるか。それでダメならしょうがないという気持ちでした」
これまででいちばんつらかった時期
棋聖戦第5局は、東京都千代田区にある都市センターホテルで行われた。午後になると羽生の偉業達成を期待する取材陣が集まり始めた。多くは普段、将棋の取材にかかわらない一般マスコミである。
夕刻、羽生が頭を下げた姿がモニターに映る。投了の瞬間、豊島の胸に去来したのはうれしさよりも「長かった。ホッとした」という気持ちだった。28歳になっていた。
『絆―棋士たち 師弟の物語―』(新潮文庫)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします将棋連盟の広報が取材陣を順に対局室に誘導する。100期達成ならば先を競ったであろう記者やカメラマンも、穏やかに指示に従う。
筆者は最後のほうに入室した。ストロボが光る中、下座に座る姿が目に入った。その背中が、大きく感じられた。
こんなにも逞しかったか……。
豊島を間近で見たのは、電王戦以来4年ぶりだった。どれだけの葛藤を乗り越えてきたのだろう。儚げだった青年の面影はなかった。
記者会見が始まる。豊島は運営の指示に従って動いた。記者が自分を「棋聖」と呼ぶ声が聞こえた。いくつかの質問に答えた後に「これまででいちばんつらかった時期は?」と聞かれる。
「25歳からいままで」
ためらわずに言った。豊島が笑顔を見せると、口元に八重歯が覗いた。
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