2浪で早稲田に合格した原さん。浪人時は親も周りに言い出せなかったと言います。写真はイメージ(写真:kapinon / PIXTA)現在、浪人という選択を取る人が20年前の半分になっている。「浪人してでもこういう大学に行きたい!」という人が激減している中で、浪人はどう人を変えるのか。また、浪人したことで何が起きるのか。 自身も9年間にわたる浪人生活を経て早稲田大学の合格を勝ち取った濱井正吾氏が、さまざまな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張ることができた理由などを追求していきます。今回は福岡県の公立進学校から2浪して、早稲田大学商学部に合格。卒業後に入社した東急エージェンシー在社時に、TCC新人賞を受賞。その後パイロンを経て、2008年にクリエイティブユニット『シカク』を結成。現在まで全国国民年金基金「夢を、上乗せしよう。」スゴイダイズ「豆乳じゃない。」など数々の仕事に携わったコピーライター・クリエイティブディレクターの原晋さんにお話を伺いました。著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

浪人してよかったこと・悪かったこと

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今回取材した原晋さんは、現在、コピーライター・クリエイティブディレクターとして活躍をしています。

そんな原さんも2浪を経験しています。

現在、浪人時代に培った能力が仕事で生きているようで、「20歳まで受験勉強をしてよかった」と話してくださいました。その一方で「残念なこともある」とも語ります。

原さんが浪人を経験してから25年以上が経過した現在、浪人のメリット・デメリットについてどう考えているのかを深掘っていきます。

原さんは母方の実家がある山口県萩市に生まれ、福岡の北九州市で育ちました。名前の晋(すすむ)は、萩市出身の尊王攘夷志士、高杉晋作から一字をもらったそうです。

「両親はともに京都の大学を卒業していて、夫婦で北九州市の和食器を扱うセレクトショップをしていました」

原さんの自宅があった地区は新興住宅地だったため、治安の問題はなかったものの、進学予定だった中学校は隣の地区にあり、当時はとても荒れていたそうです。

両親はそれを回避するために、原さんに国立の福岡教育大学附属小倉小学校の受験を勧めました。

「経済的にも私立に通わせる余裕がない状況だったので、国立のみの受験でした。当時の附属小倉小学校の入試は、1次試験が筆記試験、2次試験は抽選だったのですが、運よく合格できたのでよかったです。

自分の姉は抽選で落ちてしまって地元の公立小学校・中学校と進むのですが、中学校では1階のガラスがすべて割られたり、机を焚き火として燃やしていたり、先生が金属バットで殴られたりといった状況で、まともな授業が3年間ほぼ行われなかったそうです……」

高校で大きな転機を迎える

一方、原さんが通っていた小学校では行事が盛んで、とても充実した日々を過ごせたそうです。福岡教育大学附属小倉中学校に進学してからも楽しい生活は変わらず、サッカーを始める傍ら、学業面では138名いた同級生の中で、半分〜20位以内くらいの成績をキープしていました。

「私が通っていた小・中学校は国の実験校ということもあり、ほかの地区に比べても教育水準が高かったと思います。小5~6年生から塾に週1~2回通って勉強をして、高校受験は県内トップクラスの公立高校と、博多と地元の私立高校2校に受かりました」

こうして高校受験を全勝で終えた原さんは、学校の立地と金銭面の問題から、公立高校に進学することを決めます。

しかし、これが彼にとって大きな人生の転機でした。1年生の1学期で彼は、「自分が行きたかった高校じゃない」と思ってしまったそうです。

「当時はすごい体罰校で、1年時には100回くらい殴られていました。赤点をとるたびに怒鳴られたり、ゲンコツされたり、ビンタされたり。先生が嫌いになってしまい、何一つ勉強しなくなってしまいましたね。入ったときの順位は450人の中で200~300番くらいだったのですが、すぐにもっと下位の成績に落ちました」

父親から「400番を超えたら(勉強に集中するために)部活をやめろ」と言われていたそうですが、ついに1年の3学期には404位になり、中学から続けていたサッカーをやめて、高校2年生から河合塾に通うようになります。

とはいえ、1年生のときに抜けた基礎を取り返せるほど甘くなく、一時的に成績が上がることはあったものの、基本的には半分より後ろの成績が続きました。

母親の言葉が救いになり、浪人決意

「受験するとき、自分(立命館大学)より上の京都の大学に行ってほしかった父親に『君の(受けられる)大学は3つ。京都大学、同志社大学、立命館大学だ』と言われました(笑)。現役のときは5教科平均で偏差値52くらいしかなかったので受かるはずがなく、同志社大学3学部と立命館大学4学部を受けて、全敗しました」

通っていた公立高校は、九州大学の合格者数をほかの高校と競い合っていたこともあり、当時私大受験では不要だった理数科目を全員強制的に3年間勉強させられました。結果全敗で現役の受験を終えた原さん。

彼はためらいなく浪人を決断しますが、その理由については「親に大学の楽しさを聞いていたから」と答えてくれました。

「『大学に行けば好きな勉強ができるんだよ』と、小学校のときから聞いていました。高校での勉強は地獄でしたけど、母親の言っていたその言葉が救いでしたね。現役で合格するのは無理だろうと思っていましたが、大学に行かずにいきなり社会人になるという選択は、考えたことはなかったです」

こうして原さんは、高校2年生から通っていた河合塾で引き続き浪人生活を過ごすことに決めます。4月を迎えるころには、浪人する前の春休みに早稲田大学を見に行ったこともきっかけで、志望する大学もはっきりと決めていました。

「大隈講堂の威容や、誰でも受け入れることを、『門戸開放の門』という門柱がない正門で表現した自由な考え方が魅力的だと思いました。自分でも、河合塾で早稲田のことをいろいろと調べていました。

OBを見ても、タモリさん、久米宏さん、デーモン小暮さん、福澤朗さんと、大学の校風である”自由”を体現している方が多くて、小中学校時代の自由な学校環境に対するいい記憶や、高校の環境との対比もあってか、自由なこの環境に入りたいと強く思いましたね。浪人を始めるにあたって、初めて自分の意思で志望校を設定できました」

それから原さんは、真面目に1年間通って、朝から晩まで「めちゃくちゃ勉強した」と語ります。その努力の成果もあって、秋ごろの模試の偏差値は62程度と、前年度より10ほど伸ばしました。早稲田大学の夜間学部では、D判定も出るようになったようです。

「1浪する際に、父親に早稲田に行きたいと言いました。そうしたら去年に続いてまた『東京には大学が3つある。東大・慶応・早稲田だ』と言ったんです。私には、去年父が言った京都大学、同志社大学、立命館大学と合わせて6つしか受験できる大学がなかったんです (笑)」

この年の彼は父親の意向もあり、早稲田大学5学部に加えて同志社3学部、立命館4学部を受けましたが、またしても全滅に終わってしまいました。

「街を出歩かないでほしい」と言われる

受験した12学部すべてに落ちてしまった原さん。大学には行かなければならないと思っていたために2浪を決意するものの、この年の失敗はさすがに精神的に堪えたようです。

「親が自宅の店に来られるお客さんから『息子さん、浪人してたよね? どこに行ったの?』とよく進路を聞かれていたそうですが、そのたびに言葉を濁していたようです。

親にも『(日中は)街を出歩かないで』と言われていたくらいです。ただ、『将来必要だし、気分転換にもなるから』とも言われて、2浪目の春には自動車免許の取得には行かせてもらいましたね」

親のためにもこの年こそ決めないといけない。決意を新たに落ちた理由を考え直したところ、「受かる状態がわかっていなかった」という結論に至ります。

「1浪目は勉強もしましたし、成績も伸びました。でも、一向に自信は沸かなかったんです。現役のときにも合格したことがなかったので、受かり方が全然わからないまま挑んでしまったんだなと思いました。

だから、この年はやり方を変えたんです。自分の弱点を分析して、どのレベルまで上げないと早稲田に行けないのかをとても考えました。それまで『人気がある先生だから』という理由だけで授業を選んで受けていたのですが、自分の弱点を補強するための先生を探して、選んで受講しました」

彼の中で1浪以前と明確に変わったのは、「戦略を立てて、徹底的に考える」という姿勢でした。

授業でわからないことがあったら、その場で先生に聞いて、完璧になってから帰ることも徹底しました。勉強の質が前年よりも上がったことで、この年の模試の偏差値は70前後で安定するようになったそうです。

「『記憶』ではなく『理解すること』によって成績が伸び、勉強が楽しくなって積極的に取り組めた1年でした。国語は単なるテクニックに走らず、文章をちゃんと読んで理解する習慣をつけましたし、英文もライトな小説や論文として捉えて、英語で理解して日本語に訳すのではなく、日本語として通じる言葉に意訳できるようになりました。

受験科目の中でも、いちばん受けていて楽しかったし、今につながっていると思えたのは世界史の青木裕司先生の授業ですね。

『1853年にペリーが来航した』という事実だけ覚えるんじゃなくて、『すごい装備の黒船が来たことで、世界の脅威を知った日本中の空気が一変し、たった15年で日本社会を根幹から変えた明治維新のきっかけになった』というように『歴史は流れが大事、年号は歴史の流れの中にある点』という考え方を教えていただきました」

試験慣れすることで、自信をつける

この年はひたすら河合塾・代ゼミ・駿台の模試を受け続けたそうですが、もうできない問題はあまりなくなっていたそうです。

それでも彼には去年・一昨年の反省があったため、試験慣れをするためにセンター試験と、その後すぐにあった自身の偏差値から20ほど下の大学、赤本で9割以上取れる相性のいい立教大学を新たに受験しました。早稲田の受験に向けて、万全を期す手間を惜しまなかったことで、見事に本番への自信を蓄えることができたそうです。

「最初に受けたセンター試験こそそんなにできませんでしたが、次の私立大学と立教大学は合格しました。試験に慣れるために受けた私立大学では90分の試験時間が与えられている科目を30分で全部解き終わったのですが、周囲の受験生はまだ考えているのがわかったので、ちゃんと実力がついてるんだなという実感が沸き、自信になりました」

立教大学と、2年連続落ちた同志社大学に合格し、ついに私大でいちばん試験日程が遅い早稲田の受験を迎えます。

政治経済学部・商学部・教育学部・社会科学部の4つに出願し、「これだけ自信あって落ちたらもうダメだな」と思うほど、やりきったという思いを抱えて臨んだ早大受験。

いちばん最初の発表だった教育学部の合否発表を現地で見た彼は、ようやく追い求めた第一志望大学の合格を確認することができました。

「友達の家から見に行ったのですが、うれしかったですね。最初はあれだけ嫌いだった勉強が、途中から楽しくなっていったから、ここまで続けることができたんだろうなと思います」

政治経済学部はダメだったものの、商学部と社会科学部にも合格していた原さんは、商学部に進学することを決めて、浪人生活を悔いなく終わらせました。

2年の浪人生活が自信になったという原さんは、早稲田大学商学部に入学してから「人がやりたくないことを率先してやるようになった」と語るように、福岡学生稲門会とアウトドアサークルの2つで代表を務めるなど、精力的にいろんな人と関わり大学生活を謳歌します。

コピーライターとして活躍

また大学で受けた広告論の授業でコピーライターになるという将来の方向性も定まり、優秀な成績で大学を4年で卒業して、東急エージェンシーに入社しました。

現在の原さん。数々の有名な広告を手がける(写真:原さん提供)

会社で配属されたのは営業職だったものの、業務時間外に自身でコピーを書き続け、入社4年目に東京コピーライターズクラブ(TCC)の新人賞を受賞してクリエイティブ局へ移り、自分の力でコピーライターへの道を拓きました。

数多くのテレビCMやグラフィック広告に携わったあと、パイロンを経てフリーランスとなり、クリエイティブユニットのシカクを結成して現在に至ります。

現在、「好きなことを仕事にできて、大変幸せです」と語る彼は、浪人の2年を過ごしてよかったと語ります。そのよかった理由は「努力の方向性を戦略的に考える姿勢が身についた」ことと、また、頑張れた理由については「楽しかったから」と答えてくれました。

「2浪して、何をすればいいかを具体的に考えるようになったことが、現在の仕事にも生きています。たとえば、企業のブランドデザインを考えとき、何が足りないのか、何が必要なのか?をまず考えるのですが、それは2浪目でできたやり方ですね。

人間の成長度合いには差があるので、自分は20歳まで受験勉強をしてよかったと思うんです。18歳で受かった方は、『よくそんな早く成熟できたなぁ』と感心します。

もし、自分が現役・1浪で実力以上の大学にたまたま受かっていたら、なんとかなると思って手を抜く人生になったんじゃないかなと思うので、偶然でも受からなくてよかったのかなと感じますね。2浪目で受かったのには、ちゃんと理由があったのだと思います

留学することができなかった

しかし、2浪して1つだけ残念だったこともあるようです。

「以前から留学をしたいと思っていたのですが、結局できませんでした。実は高校を卒業する前に、親父に『(キミに)6年やる』と言われていたんです。

『浪人して大学行くのもいいし、どこか留学するのもいいし、大学院行くのもいいから好きに使えよ』と。自分はその2年を浪人で使ってしまったので、留学させてほしいとは言い出せなかったんですよね。いま自分も年月を経て、子を持つ父親の立場となったので、自分の意思で選べる環境を子どもに作ってあげようと思っています」

「いい大学に行っておけば、その先がある」という原さんの父親が受験の中で敷いたレール。18歳までただ大学を目指すのが当然だと思っていたからこそ、浪人して初めて自分の意思が芽生え、物事への姿勢や考え方が変わり、今の仕事につながっているのだと感じている原さん。

そして、自身の経験から、現在父親となった彼自身も、子どもが自分の意思で後悔のない選択ができる環境を整えようとしているのが伝わりました。

原さんの浪人生活の教訓:成熟する速度は人によって違う

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