春におすすめの海外旅行先をご紹介(写真:Neirfy/PIXTA)この記事の画像を見る(3枚)春先からGWにかけて、海外旅行を計画する人も多い季節です。遠出するなら、濃密な旅にしたい! と考えている人も多いでしょう。新型コロナ流行前とは世界の状況も変わり、旅行のトレンドも変わりました。人気予備校の世界史講師でトラベルクリエイターの佐藤幸夫氏の著書『人生を彩る教養が身につく 旅する世界史』より、春におすすめの海外旅行先を抜粋して紹介していきます。

春のフランスで激動の歴史を体感する

百年戦争で勝利したフランス・ヴァロワ朝は16世紀前半に最盛期を迎え、文化面でもフランス=ルネサンスが開花。一方、約60年に及ぶハプスブルク家とのイタリア戦争では敗北。フランスはその後、ユグノー戦争という内戦を経験し、ブルボン朝による絶対王政へ向かいます。写真に収めると美しいお城や遺跡も多いフランスは、3~5月の穏やかな季節に行くのがおすすめです。絶対王政からフランス革命までの歴史を振り返り、歴史を感じる観光地を見てみましょう。

①絶対王政の完成

スイスにおける宗教改革の影響で、カトリックの多いフランスにもカルヴァン派(ユグノー)が増え、この新旧両派の対立から約30年にわたるユグノー戦争が勃発します。最終的にはヴァロワ王家も巻き込んだ大内乱の末に王家が断絶、ユグノー諸侯であったナヴァル王アンリがアンリ4世として即位し、ブルボン朝(1589~1792、1814〜1830)を創設しました。彼は多数派のカトリックに配慮して、自らはカトリックに改宗、ナントの王令を発布し、ユグノーを認めることでこの内戦を平定。その後は、ルイ13世・ルイ14世と続き、絶対王政を完成させることになりました。

のちに「太陽王」と呼ばれたルイ14世は、蔵相にコルベールを登用し、貿易に力を入れる重商主義政策をとり、東・西インド会社による植民地経営を推し進めます。さらに、多くの侵略戦争や植民地戦争を繰り広げ、イギリスに敗北し、多くの植民地を失いました。一方、熱心なカトリックであったため、ナントの王令を廃止し、商工業者の多いユグノーの大量亡命を生み出してしまいます。このことは産業の停滞による経済的衰退を引き起こしました。さらに、オーストリア継承戦争やアメリカ独立戦争などで戦費がかさんで王室は財政難となり、フランス革命の一因となったのです。

この時代の空気を感じるスポットとして、ロワール渓谷の古城たちを観光しに行くのはいかがでしょうか?

狩猟小屋として造られた荘厳なシャンボール城、レオナルド・ダ・ヴィンチが招かれ隣の教会に彼の墓があるアンボワーズ城、ジャンヌ=ダルクが初めてシャルル王太子(のちのシャルル7世)に謁見したシノン城、ユグノー戦争時代に摂政として実権を握ったカトリーヌと関係の深い最も美しい(と私は思う)シュノンソー城があります。パリから日帰りで行けるので、パリ観光のついでに足をのばすのがオススメ。

②フランス革命の勃発

政府はこれ以上の平民からの徴税は困難と判断し、特権身分である聖職者・貴族への課税を考えました。しかし、久しぶりに開いた三部会(身分制議会)にて対立した平民らが三部会から離脱し、国民議会を作ったことがフランス革命の予兆となり、1789年7月14日に起きたバスティーユ牢獄襲撃事件が革命の始まりとなったのです。ただ、フランス革命は、国王×議会の対立だけでなく、平民層も上層・中間・下層での対立構造をもつ階級闘争になっていきました。

急進派が政権を握ると、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットをはじめ多くの人が処刑されました。キリスト教も排斥されました。さらに、革命の波及を恐れた周辺国との対外戦争も始まったのです。結局、この恐怖政治(ラ・テレール:テロの語源)は長く続かず、まもなく中間層が支持する穏健共和政へと変わりますが、社会不安が増大する中、ナポレオン・ボナパルトが登場し、1804年に国民投票で皇帝に即位、第一帝政を開始しました。

当初は勝利を重ねましたが、ロシア遠征の失敗などを契機に最終的にワーテルローの戦いで破れ、南太平洋の孤島(セントヘレナ島)に流されてしまいました。同時に、ナポレオン戦争の処理としてウィーン会議が開かれ、フランスには再びブルボン朝が復活することになったのです。

フランス革命を肌で感じるならコンコルド広場へ。ギロチン台が置かれた場所が現在のコンコルド広場です。エジプトのルクソール神殿から運んできたオベリスクがそこに立てられています。オベリスクの後ろでライトアップされて輝くエッフェル塔も眺められる画角がベストショットです。

オベリスクの後方にそびえ立つエッフェル塔。ぜひ夜に見たい!

風車軍は、17世紀オランダの繁栄の象徴

ネーデルラントは「低地地域」を意味していて、現在のオランダ・ベルギー・ルクセンブルクにあたります。特にオランダは湿地帯が多く、中世半ばから始まった大開墾運動の一環として、水を汲み上げて干拓地を造るようになりました。これがきっかけで、海運業が繁栄し、17世紀は海洋国家を形成します。その後、運河に沿って、干拓地の排水を行うために18世紀頃からたくさんの風車が造られるようになりました。

オランダらしさを堪能するためには、風車群はぜひ見ておきたいところ。オランダの首都アムステルダムから約2時間、ロッテルダムの郊外にある2つの川に挟まれた村(地区)がキンデルダイクで、世界遺産にも登録されています。もともと運河に水を流すことは地盤沈下を引き起こしたため、風車のポンプを利用して、水面の高さの維持を図りました。数台の風車とトルコから輸入した色とりどりのチューリップ畑で有名なのは、オランダ・スキポール空港から30分のところにある「ザーンセスカンス」。ここは、西欧でも最も古い工業地帯で、18世紀には600基以上の風車があったと言われています。

可愛い雑貨や洋服においしい料理、そこにスパイスとしてある歴史文化

ベトナムは、可愛い雑貨や洋服、フォーやバインミーなど日本でもおなじみの美味しい料理、小柄で愛嬌のある笑顔と人懐っこい性格、海や川や渓谷、そしてジャングルまである大自然と魅力がいっぱい。そこに、強固な民族主義を誇る歴史がスパイスとして加わる観光地です。

①交易の要地として栄える『人生を彩る教養が身につく 旅する世界史』(KADOKAWA)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします

紀元前4世紀からベトナム北部に〈青銅の短剣〉〈銅鼓〉などで有名なドンソン文化が繁栄しました。その後、秦滅亡の混乱に乗じて南越という国が建国されましたが、前漢時代に滅ぼされ、ベトナム中部に日南郡や現在のハノイに交趾郡などが置かれます。2世紀には中部にチャンパー(林邑)が自立、南部からカンボジアにかけて扶南が成立し、いずれもローマとの交易の拠点となりました。

また、6世紀頃から中部の港町ホイアンもインドと中国の中継貿易で繁栄しています。その後、唐の滅亡によりベトナム人が自立、11世紀初め、都をハノイ(タンロン城)に定めた李朝が建国され、長期的な統一政権(大越国)が始まりました。そして、陳朝ではモンゴルの侵入を撃退、黎朝ではチャンパーを征服して一時南北ベトナムの統一を果たしました。

②フランス領時代の面影

1802年に成立した阮朝は大越国から越南国に呼称を変え、清朝の属国を維持しました。しかし、キリスト教迫害を口実にフランス(ナポレオン3世)が植民地化に乗り出し、まずカンボジアを、その後ベトナムを保護国化します。それを認めない清王朝を清仏戦争で撃破したフランスは、1887年に仏領インドシナ連邦を成立させ、その後ラオスも連邦に組み込みました。

20世紀に入ると、知識人によるナショナリズムが高まる中、日露戦争に勝利した日本に留学生を送る東遊(ドンズー)運動が展開されました。また、第1次世界大戦後には、ロシアでの社会主義革命の影響を受けてインドシナ共産党が成立し、反仏運動を開始します。第2次世界大戦では、フランスに代わり支配者となった日本に対して、ホー=チ=ミンによって結成されたベトナム独立同盟会が反日ゲリラを展開していきました。

③ベトナム民主共和国の建国

1945年の革命で阮朝は滅亡し、ホー=チ=ミンを大統領とするベトナム民主共和国が建国されました。それに対し、フランスは植民地復活を画策し、南部にフランスの傀儡国家(ベトナム国)が生まれ、南北に分裂してしまいました。このインドシナ戦争の結果、フランスは敗北してベトナムから撤退しましたが、ベトナムが社会主義化することを恐れたアメリカが介入、南北の対立は米ソ冷戦の代理戦争と化したのです。そして、1965年からは米軍が本格的に軍事介入し、世にいうベトナム戦争に発展しました。

結局、ジャングル(ベトナム戦争の爪痕を残すクチ・トンネル)などの地の利を得た北ベトナムと南部の共産ゲリラが勝利し、南北は統一され、ベトナム社会主義共和国が成立しました。1986年からはドイモイ(刷新)という社会主義市場経済が導入されたことで、ベトナムは経済成長を果たしました。

ホイアンのランタンは写真映えすること間違いなし

SNS映えするスポットの裏にある歴史的な背景を知ってから現地へ行くと、パリのコンコルド広場もホイアンの港町も、もっと味わい深く見えて濃密な旅になりますよ。

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