国民保守主義と「意識高い系資本主義」は、本質において見事に通じ合っています(写真:cba/PIXTA)近年「WOKE」という言葉がよく使われている。「WAKE=目を覚ます」という動詞から派生したこの言葉は「社会正義」を実践しようとする人びとの合言葉になっている。『WOKE CAPITALISM 「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』著者のカール・ローズ教授は、企業が社会問題に取り組むことそのものが本音レベルで利益に直結する現代資本主義の構造と問題点を描いている。私たちはこの状況をいかに読み解くべきか。近著『新自由主義と脱成長をもうやめる』著者の一人、佐藤健志氏が分析する。

世界が直面するジレンマ

グローバリズムには弊害が多い。

さりとてナショナリズムに徹するには、地球規模の問題が多すぎる。

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現在の世界が直面するジレンマは、このようにまとめられます。

 

そんな中、二つの注目すべき理念が台頭している。

一つは「国民保守主義(National Conservatism)」、もう一つは「意識高い系資本主義(Woke Capitalism)」です。

国民保守主義は、名前のとおり保守性を強調するもので、逆に「意識高い系資本主義」はリベラリズムを掲げる。

むろん前者はナショナリズム志向で、後者はグローバリズム志向。

言い換えれば、二つの理念は対立する関係にあるのですが……。

 

なんと、お立ち会い。

国民保守主義と「意識高い系資本主義」は、本質において見事に通じ合っているのです!

どうして、そうなるのか?

国民保守主義から見てゆきましょう。

多数派の意向に合わせた権威主義

 イギリスの週刊紙「エコノミスト」は最近、国民保守主義について次のような趣旨の論評を掲載しました。

いわく。

 

 

国民保守主義は国家による統制を重視し、「意識高い系」を否定する保守主義であり、国家主権を個人より尊重する。

レーガンやサッチャーのような1980年代の保守主義者と異なり、彼らは「大きな政府」にたいして懐疑的な姿勢を取らない。国民保守主義者は、巨大なグローバリズム勢力が人々を追い詰めていると見なしており、それを救えるのは国家だけだと構える。

市場経済はエリートによって不当に支配されており、移民などとんでもない。政治的多元主義はロクなものではなく、わけても多文化共生は論外だ。国民保守主義がとくに執着するのが、「意識高い系」の発想とグローバリズムに毒されていると見なした組織や制度を解体することである(「国民保守主義の危険性」、2024年2月17日号。拙訳、以下同じ)。

 

多元主義を嫌い、国家主権を個人より尊重するのですから、国民保守主義は必然的に「社会の多数派の意向」(より正確には、国民保守主義者が「多数派の意向」と見なすもの)に合わせた権威主義をめざす。

けれども中野剛志さんたちとの共著『新自由主義と脱成長をもうやめる』(東洋経済新報社、2024年)で指摘したとおり、自由民主主義が機能する条件は、さまざまな中間団体を通じて多元的な利害調整が行われること。

 

つまり国民保守主義は、自由民主主義を否定する性格を持ちます。

しかも少数派に属する人々の意向は抑圧して構わないとくるのですから、ナショナリズムを志向しようと、実際には国民統合を解体しかねない。

看板に偽りありと言うか、自滅的と言うか。

「国家保守主義」としたほうが適切かもしれませんが、何にせよ、これで経世済民が達成できるとは信じられません。

ならば国民保守主義が反発してやまない「意識高い系」は、自由を守り、経世済民に貢献する理念なのか?

それが違うのです。

とくに曲者なのが「意識高い系資本主義」。

次はこの点を見ることにしましょう。

正しさに酔ったあげくの独善

そもそも「意識高い系」とは何か?

これを理解するうえで役立つのが、組織論の専門家カール・ローズの著書『WOKE CAPITALISM 「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』(東洋経済新報社、2023年)です。

 

「意識高い系」の原語「woke」は、目覚めているという意味。

「進んだ考えを持っていること」、ないし「社会的な問題の存在について自覚的であること」を指します。

もともとはアメリカの黒人の間で使われた一種の隠語でしたが、1960年代、変革の気運が社会的に高まるのと前後して、より広範な層に浸透してゆく。

今や人種問題はもとより、同性婚、ジェンダーの平等、経済格差、気候変動、動物の権利といったさまざまな事柄について、進歩的、つまりリベラルな考えを持つことが「woke」と呼ばれるようになりました。

 

ただし同時に、言葉のニュアンスも変わってくる。

「広い視野を持ち、しっかりと物事を考える」という肯定的なものから、「偽善的なキレイゴトをしたり顔で並べ立てる」という否定的なものへと移行していったのです。

日本語の「意識高い系」など、2010年代に使われ出したこともあって、はじめから「本当には意識が高いわけではない」という揶揄の意味合いを帯びていました。

 

これもまた無理からぬことでしょう。

「意識高い系」が掲げる問題意識は、少なくともタテマエとしては否定しづらいものばかり。

裏を返せば、自分の正しさに酔いやすくなる。

「オレたちの高邁な理想に賛同しないヤツはバカ」という独善に陥るのです。

口でこそ「多文化共生」を唱えたがるものの、実際には意見の違う者を認めるつもりがなかったりするんですな。

ところが近年では、民間企業、なかんずく多国籍企業が、社会問題について「意識高い系」の姿勢をアピールする傾向が強い。

これがつまり「意識高い系資本主義」ながら、当該の傾向、昔ながらの「企業の社会的責任」論とは異なります。

富豪たちは「世界の少数支配」をめざす

「企業の社会的責任」論が前提としたのは大きな政府。

必要に応じて、企業活動にも制約を加えかねない存在です。

経済のグローバル化はさほど進んでおらず、「世界には国家レベルでは解決できない問題が山積している」という発想も顕著ではなかった。

ゆえに企業は活動を規制されないためにも、営利追求一辺倒ではなく、公共の福祉や、文化などの分野に利益を還元することで、政府による経世済民の達成を手助けすべきだというのが「社会的責任」論。

 

ひきかえ、「意識高い系資本主義」が前提とするのは小さな政府。

企業活動を規制するどころか、多国籍企業に迎合しかねない存在です。

経済はすっかりグローバル化、国家レベルでは解決できない問題が多々あるのも常識。

だから企業が政府に代わって、意識高く進歩的な姿勢を取ることにより、経世済民の担い手にならねばならない!

こういう発想なのですよ。

 

投資運用会社ブラックロックのCEOで、大富豪でもあるラリー・フィンクなど、2019年、投資先各社のCEOにこう呼びかけました。

「根本的な経済の変化と、永続的解決策を提供できない政府の失敗によって社会は動揺しており、官民を問わず、企業が差し迫った社会的・経済的課題に取り組むことを、社会は一層期待するようになっています。(中略)世界はあなた方のリーダーシップを必要としています」(『WOKE CAPITALISM』134ページ)

 

莫大な富を持つ自分たちが率先して、世の中を「良い方向」に導こうという次第。

これの行き着く先は、富豪による(実質的な)世界政府の構築です。

大企業は多国籍化して久しいんですから。

けれどもカール・ローズが指摘するとおり、ここで言う「良い方向」とは「富豪層にとって都合の良い方向」のこと。

しかも「意識高い系」なので、自分たちの高邁な使命感に賛同しないヤツはバカということになる。

こちらは「スーパーリッチの意向に合わせた少数支配」をめざしているのです。

となると、「意識高い系資本主義」によって経世済民が達成されるとも信じがたい。

自由民主主義は再生できるか

「意識高い系」の主張は、しばしば少数派の権利の擁護と結びつく。

おまけにグローバリズム志向が強いのですから、ナショナリズムと「多数派の意思」にこだわる国民保守主義が、「意識高い系資本主義」を目の敵にするのも当たり前でしょう。

 

だが国民保守主義は権威主義をめざし、「意識高い系資本主義」は少数支配をめざす。

「社会の多数派(とされるもの)の意向」を絶対視するか、「意識高く進歩的な富豪層(とされるもの)の意向」を絶対視するかの違いがあるだけで、あとはほとんど変わりません。

先に紹介した「エコノミスト」の記事も、ずばりこう述べました。

 

「自由を否定する左派と、同じく自由を否定する右派は不倶戴天の敵に見えるものの、『意識高い系』の是非をめぐって激突することで、互いに塩を送り合っているのだ」

同じ穴のムジナというわけですが、ここでやりとりされる「塩」とは何か。

 

お分かりですね。

自由民主主義の否定です。

より具体的には「国民規模で多元的な利害調整を続けてゆけば、経世済民の達成・維持はもとより、地球規模の問題への効果的な対処も可能となる」という発想の否定。

国民保守主義は「自由民主主義のもとでは、グローバリズム勢力や『意識高い系』によって多数派が割を食う」と考える。

だから権威主義が魅力的に映るのです。

片や「意識高い系資本主義」は「自由民主主義のもとでは、政府は地球規模の問題はもとより、国内の問題についても有効な対処ができない」と考える。

だから国境を越えた少数支配が理想となるのです。

 

どちらの立場にも重大な欺瞞が潜んでおり、経世済民の達成など望みえないのは、すでに論じたとおり。

ただし重大なのは、自由民主主義が機能不全をきたしているという基本認識に関するかぎり、両者はそろって正しい可能性が高いことです。

待ち受ける二者択一とは

むろんこれは「グローバリズムには弊害が多いものの、ナショナリズムに徹するには地球規模の問題が多すぎる」というジレンマの現れ。

国民保守主義と「意識高い系資本主義」は、自由民主主義への幻滅から生まれた双子の兄弟のごとき理念であり、だからこそ本質において通じ合うのだと評さねばなりません。

そしてどちらの解決策も役に立たない以上、われわれは自由民主主義の再生を図ることで、未来への道を模索しなければならない。

決して容易ではないでしょう。

けれども模索に失敗すれば、待ち受けているのは「自滅的な権威主義か、富豪だけが栄える少数支配か」の二者択一なのです。

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