日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞授賞式に合わせ、広島市内では10日、式を中継するパブリックビューイング(PV)など様々な催しがあった。

 平和記念資料館では、市と広島平和文化センターが祝賀式典を主催。被爆者や、体験を受け継ぐ「被爆体験伝承者」ら約300人が集まり、スクリーンで式を見守った。日本被団協の田中熙巳代表委員がメダルを受け取ると大きな拍手がわいた。

 PVに先立って登壇した切明千枝子さん(95)は15歳のとき、爆心地から約2キロで被爆。建物疎開の片付けに出かけた後輩の多くが命を落とした。あいさつで切明さんは「友だち、家族、自分の命を守る、最も身近な命を守ることが平和を守る第一歩です」と話した。

 若者代表として登壇した県立広島大の大学院生、岡本幸さん(23)は式典後の取材に「田中さんがスピーチで、次の世代への期待を語っていたことが記憶に残った」と振り返った。普段は平和記念公園を訪れる観光客を英語で案内するボランティアをしているという。「卒業後も広島に貢献する活動をしていきたい」

 中区のソーシャルブックカフェ「ハチドリ舎」でも授賞式の様子が中継され、「核政策を知りたい広島若者有権者の会」(カクワカ広島)のメンバーらが受賞を祝った。

 共同代表の田中美穂さん(30)は田中熙巳さんのスピーチについて、「(原爆の犠牲者らへの)国家補償がなされていない、と言い直したところが一番印象に残った。そこがまだまだ伝わっておらず、そこを伝えていく一人にならないといけないと思った」と話した。

被爆者の思い知って 14人が語る

 授賞式に先立って、平和記念資料館の地下では「被爆者の想いを聴く会」が開かれた。NPO法人「ANT-Hiroshima」やひろしまNPOセンターが主催し、14人の被爆者や被爆2世が自身の被爆体験などを語った。

 登壇した山田寿美子さんは、2歳で被爆。建物疎開に出ていた両親を亡くし、原爆孤児となった。「子どもは一人で生きていくことができない。親類の家を転々とし、廊下や倉庫で過ごした。どの家にも居場所はなかった」と振り返った。ノーベル平和賞については「多くの苦しんでいる被爆者のために与えられたと思う」と話した。

 森下弘さんは14歳のとき、爆心地から約1.5キロの地点で被爆し、顔などにやけどを負った。「閃光が炸裂したときは、巨大な溶鉱炉の中に投げ込まれたように感じた」。これまでの平和運動を振り返ると共に、「若い人が本気で平和運動に取り組んでほしい」と呼びかけた。

 在外被爆者の問題を訴える登壇者もいた。胎内被爆者で広島県朝鮮人被爆者協議会理事長の金鎮湖(キムジノ)さんは「なぜ数万人の朝鮮半島出身者が被爆したのか。日本の植民地政策の結果だ。あまり日本社会で知られていないことが悲しい」と訴えた。

 原爆ドーム前では広島県被団協(佐久間邦彦理事長)と原水爆禁止広島県協議会(県原水協)が受賞を祝う集会を開き、約120人が集まった。「黒い雨」による被爆者の高東征二さん(83)は「ノーベル平和賞を胸に、これからも内部被曝(ひばく)の恐ろしさを訴えていく」とスピーチした。

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。