■聴力を失うも…67歳でデビュー
第2次世界大戦前のドイツで生まれた、フジコ・ヘミングさん。スウェーデン人の父と離れ、ピアニストだった母と共に日本へと渡りました。
フジコ・ヘミングさん
「(Q.ピアノの手ほどきはお母さん)はい。楽しかったからね。別に認められて人の前で弾くなんていうのは二の次で。(Q.ご自分が良ければ)ネコや犬も聞いてくれたから」
戦時中は疎開先の岡山・総社市で猛練習したといいます。
フジコ・ヘミングさん
「鬼畜米英なんてポスターがどこかに貼ってあると、私のお父さんも同じような顔をした人なのにどこが悪いんだろうなんて、子どもの頃にいつも寂しい思いがした」
16歳の時、中耳炎で右耳の聴力を失いました。
フジコ・ヘミングさん
「耳が聞こえないのは忘れようとしたかな。泣く暇もなくなって」
聴力は完全に回復することのないまま、東京芸大を卒業しベルリンへ留学しました。
フジコ・ヘミングさん
「(Q.自分が無国籍な状態で留学はつらかった)スウェーデンの国籍もキープするか捨てるかという時に、うちの母がちゃんと行って話をつけないといけなかった。日本もくれなかったんですよ。外国人と結婚している子どもに日本国籍を与えないって」
苦難を乗り越え、欧州各地で音楽教師をしながら活動を続けました。
フジコ・ヘミングさん
「私はここまでこんなになるとは全然、夢にも思わなかった」
67歳の時にCDデビュー。多くの人を魅了したのは、演奏に宿る“慈愛”です。
ファン
「他の方が演奏しているのと全く違う音があって。それが本当にきれいな音色でとても好きでした」
「表現力というか、刺さるものがあって染みる」
■音が伝えた“がんばり続ける大切さ”
保護猫たちと暮らした、フジコ・ヘミングさん。
フジコ・ヘミングさん
「普段の生活とか普段の心構えが全部出ますよね。舞台俳優と同じですよ。ぶっきらぼうにものを言って通じるはずないじゃない。それと同じ。演奏も人に語りかけるようにね。こういう太くて分厚い指が一番いいんだって。白魚のような女の人の手はそんなに良い音が出ない」
漁師さんも魅了されました。
のり漁師 徳永義昭さん
「51歳の時に、フジコ・ヘミングさんがテレビでカンパネラを演奏されていて。それを見て、あの曲ば弾きたか。フジコさんによって自分がピアノを始めて『頑張り続ける大切さを学んだ』と言ってくださる方が大勢いる。おいが生きとう価値がある」
■病室でピアノ「再びカンパネラを」
画家だった父の影響で、絵画でも表現しました。
コンサート・ドアーズ アーティスト担当 小林厚美さん
「すごく自由な人。束縛を嫌う人。そこがとても魅力的だった。演奏も絵画も欲がない。人と比べたりを一切しない方。印象に残っているのは、ウクライナの戦争が始まった時、テレビの映像で難民や人々が困っている映像が映る。動物たちがかわいそうだと。戦争になると、みんな捨てられてしまう。本当に感情移入された」
入院中も、コンサートで再びラ・カンパネラを弾くためピアノに触れていたといいます。
コンサート・ドアーズ アーティスト担当 小林厚美さん
「楽譜を見たことがほとんどない。全部、頭の中に入っている。生活そのものだった」
フジコ・ヘミングさん
「人に全部知られていないの私は分かっているんですよ。それを分かってくれる天才がどこかにいるんですよ。私が持って生まれた才能をまだちゃんと現せていない。私はこんな演奏をする。世間に知らしめてから死にたい」
3月にすい臓がんと診断されたフジコ・ヘミングさん。先月21日に容態が急変し、逝去しました。
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