9月25日の東京新聞創刊140周年と、専修大大学院ジャーナリズム学専攻設置を記念し、8月20日に東京都千代田区の専修大神田キャンパスで「講演&シンポジウム 戦争を伝えるということ」が開かれた。作家の浅田次郎さんが「戦争と文学」を演題に基調講演。続いて浅田さんと、「NO YOUTH NO JAPAN」代表理事の能條桃子さん、専修大教授の山田健太さん、難民問題研究者の児玉恵美さんが「世界から戦争をなくすには」をテーマに議論した。

<浅田次郎さん 講演「戦争と文学」>
戦争であらゆる文化は破壊されるが、戦争文学だけは残る(このページ)
<シンポジウム「世界から戦争をなくすには」>
浅田次郎さん「核のバランスで平和が維持されるというのは幻想」

<浅田次郎さん 講演「戦争と文学」>

◆戦争であらゆる文化は破壊されるが、戦争文学だけは残る

東京新聞創刊140周年記念事業で「戦争と文学」をテーマに基調講演する浅田次郎さん=東京都千代田区の専修大で(木戸佑撮影)

浅田次郎(あさだ・じろう) 自衛隊員などを経て作家に。1997年「鉄道員(ぽっぽや)」で直木賞など、受賞多数。2019年に菊池寛賞。戦争をテーマにした作品も多い。日本ペンクラブ会長も務めた。

◆私がどうして「戦争小説を書こう」となったのか

 私は1951年生まれ。戦争文学の話をするときは、戦争を知らないということを前おきにしている。戦争をご存じの方にご無礼があるかもしれないと、最初にご理解いただきたい。  私がどうして「戦争小説を書こう」と思ったのか。理由は二つ。一つは、私は自衛隊にいた。戦後まだ四半世紀しかたってないころだから、旧軍の伝統がとても残っていた。いろいろ経験をしたので、他の人には書けないものを書けるという自負もある。  もう一つは、私は別に自衛隊を経たあと作家になったのではなく、最初から作家になりたかった。そんなタイミングで三島由紀夫さんが自衛隊駐屯地で死んでしまったので、これは自衛隊を自分で確認しなければならない、と入隊した。

◆実体験者から指摘 連載途中でも言葉を変えた

 戦争文学は人間の営為、思想というものを、そのまま純粋に素朴に描いている作品が多い。だから自分もこの自衛隊経験を足がかりにして、いつか書いてみたいと思っていた。

東京新聞創刊140周年記念事業で開かれた浅田次郎さんの基調講演「戦争と文学」=東京都千代田区の専修大で(木戸佑撮影)

 ただ戦争を知らない人間が戦争を書くと、実体験者の方からお叱りを受ける。今でもはっきり思い出せるのは、「シェエラザード」という小説を新聞に連載したとき、元海軍軍人の方から、何通も手紙を頂いた。海軍軍人の話し方が「何々であります」となっているが、そうした言い方は陸軍だと。海軍は「何々です」と言うと。連載途中で言葉を変えたらおかしいのだが、変えた。  それからのちに「中原の虹」という張作霖(ちょう・さくりん)を主人公にした長い小説を書いたとき、張作霖を知っているという人と会った。その人は、張作霖が小柄な人と描かれているのはそのとおりだが、その息子の張学良も小柄と書いているが、大柄だったよと。これはショックだった。張学良は水もしたたるいい男。早とちりしてハンサムで小柄というイメージを抱いてしまった。

◆戦争について僕たちはもっと勉強しなければ

 このように暗中模索で書いてきた。それでも指摘されながらコツコツと仕事をしていくと、少しずつ固まっていくが、戦争小説は売れない。昔は体験者が懐かしがって(購入する)、ということはあったかもしれない。でも私の時代、本当に売れない。小説は娯楽ですから。分野にかかわらず、面白がって読めない小説は売れない。でも売れないからといってやめるわけにはいかない。より深めていこうと、ずっと書き続けている。  さて、戦争とは何か。戦争を憎むのは当たり前。戦争賛美など今どき世界のどこにもないと思う。戦争当事者で、やむなく戦争を肯定することはあるかもしれないが、全面的に肯定している人はいないと思う。それでもなくならない。だから、戦争について僕たちはもっと真剣に、真面目に勉強しなければいけない。

東京新聞創刊140周年記念事業で「戦争と文学」をテーマに基調講演する浅田次郎さん(木戸佑撮影)

 そういう意味で戦争文学は役に立つ。一つ例を紹介すると、十数年前、私と何人かの有志が集まって編集した「戦争と文学」という集英社刊の全20巻がある。これを編集したいと思ったのは、埋もれてしまっている戦争文学がすごく多いから。3年間かけて編集した。戦争文学についてお考えの方にはお薦めする。

◆昔は外交の手段だったが、今はそうではない

 戦争の根源を探っていくと、私が思い当たるのはクラウゼヴィッツの戦争論。ナポレオン時代の人で、この軍人が言った。「戦争とは、異なる手段をもってする、政治の継続である」。要するに究極の外交手段である、と。これがかつては戦争の本質をずっと言い得ていた。大殺りく兵器がなかったからだ。職業軍人同士が局地的な戦争をして、その勝ち負けで、外交の有利な方法をとる。無条件降伏までいかない。  ところが、軍隊の組織はそのころからほとんど変わっていないが、兵器は新しいものがどんどん積み上げられていく。一人でも多く殺せるもの、大きな破壊力があるもの。これが戦争の兵器として求められる。昔の戦争は外交の手段だったが、今はそうではない。  この状況下で核兵器があるのは大変危険。今、イスラエルが多分持っているであろう核兵器をイランに撃ち込み、イランも持っているかもしれない核兵器で反撃したら、世界はおしまいになる。ロシアが、ウクライナの原発にミサイルを撃ち込めば大変なことになり、それに対して第三国が報復に出ないとも限らない。戦争はぎりぎりのところまでいってしまっている。

◆学校教育に軍隊教育が浸透 誤算だったと思う

 クラウゼヴィッツの時代から下り、どうして日本が軍国主義になってしまったか。明治維新というものがあった。明治維新は端的に言うと「植民地にならない運動」だった。明治維新直前の幕末10年間、尊皇攘夷(じょうい)が叫ばれた。幕府に任せていると植民地にされてしまうから大政奉還させて、天皇を中心とした新しい国家をつくって外国を打ち払おうと。ところが薩英戦争、下関戦争で外国の強さを思い知った。攘夷は無理だから開国しようとなったが、ともかく外国と同じレベルに自分の国を持っていこうと。富国強兵という合言葉で。結果的に植民地にならなかったから、これは大成功。でもその結果として、欧州の列強と同じようなことをアジアでしてしまった。

東京新聞創刊140周年記念事業で「戦争と文学」をテーマに基調講演する浅田次郎さん=東京都千代田区の専修大で(木戸佑撮影)

 大量破壊兵器が使われ、それまでとは桁違いの800万人といわれる犠牲者を出した第1次世界大戦後、国際連盟ができ、軍縮の時代になった。日本も日清、日露戦争を経てさらに軍国になっていたが、世界の趨勢(すうせい)にのっとって軍縮に入った。陸軍は職業軍人10万人をリストラした。ただみんなクビとはいかない。主として旧制中学の専門教官として赴任させることにした。全国で相当な救済策になったが、それで学校教育に軍隊教育が浸透してしまった。誤算だったと思う。その後に訪れる本格的な軍国主義の時代と結びついてしまった。

◆すごく狭い島で2万人が死傷 考えたら震えた

 第2次世界大戦は、第1次大戦を上回る犠牲者を出した。少なく見積もって5000万人といわれる。このくらいの数になると、具体的には想像がつかない。大変な数です。正確なところは、残酷すぎて分からない。  先年、訪れたペリリュー島(パラオ)の話をする。米軍が大挙上陸して、日米合わせて約2万の死傷者が出た島。実際に行って分かったのだが、すごく狭い。ここで2万人が死傷したと考えたら震えた。悪い言い方だが、足の踏み場もなかっただろう。戦争というものの悲惨さだ。

◆戦争文学を読んでみてほしい

 もう一つ考えなければいけないのは、そこで亡くなった兵隊さんの多くは、職業軍人ではない。9割は召集令状で連れてこられた。妻も子もある人たちも大勢いたと思う。いやも応もなくペリリュー島に上陸させられた人たちが、足の踏み場もないような状態で死んだ。私の戦争観はくつがえった。  戦争はあらゆる文化を破壊する。科学は戦争で進展するといわれるが、それは錯誤が大きい。平和な時代でも、科学者は科学を前進させることができる。戦争であらゆる文化は破壊されるけれども、唯一の例外として戦争文学だけは成立して残る。だから戦争の暗い小説など読みたくないと思わずに、どれでもいいから読んでみてほしい。私も70歳を過ぎた。病院の世話にもなっているが、もう少し頑張って戦争小説を書いていこうと思っている。

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