長崎に原爆が投下された際に爆心地から半径12キロ以内にいながら、国が定める地域の外にいた人たちは、「被爆者」ではなく「被爆体験者」とされ、医療費の助成などに差が生じています。
長崎県内に住む「被爆体験者」44人は、2007年から順次、被爆者と認めるよう求める訴えを起こしましたが、いずれも敗訴が確定し、再び長崎市と県に対して訴えを起こしました。
一方、広島に原爆が投下された直後に降った、いわゆる「黒い雨」を浴びて健康被害を受けたと住民らが訴えた裁判では、3年前、国が定める地域の外にいた原告全員を被爆者と認める判決が確定しました。
また、先月9日の「長崎原爆の日」に、岸田総理大臣は「被爆体験者」の団体の代表と初めて面会し、厚生労働省のもとで合理的に課題を解決するための具体策を検討していく考えを示しました。
こうした中、9日午後、長崎地方裁判所で判決が言い渡される予定で、どのような判断が示されるか注目されます。
被爆体験者と訴訟の経緯
「被爆体験者」は、長崎に原爆が投下された際、爆心地から半径12キロ以内にいたものの、国が定める地域の外にいたため被爆者として認められていない人たちです。
国は、長崎の爆心地から、南北およそ12キロ、東西およそ7キロのだ円形の範囲を被爆者と認める地域として定めています。
被爆者には被爆者健康手帳が交付され、原則として医療費が無料になり、特定の病気に対する健康管理手当などが支給されています。
一方、国が被爆者と認める地域の外にいた人たちには長年、医療費の助成などが行われず、長崎市などが国に働きかけた結果、2002年に「被爆体験者」として支援する制度が始まりました。
この制度では、「被爆体験者」がうつや不眠症など、原爆の体験が原因とみられる精神的な症状やそれに伴う合併症を発症した場合には、医療費が支給されるようになりました。
しかし、「原爆の放射線による直接的な身体への影響は認められない」として、がんなどの病気になっても医療費や手当は支給されず、「被爆体験者」は2007年から順次、被爆者と認めるよう求める集団訴訟を起こしました。
一連の裁判の原告の数はおよそ550人に上りましたが、原爆の投下直後に被爆地域に入った1人を除く全員の敗訴が確定しました。
敗訴した原告のうち44人は、2018年以降、長崎市と県に対して再び訴えを起こし、このうち4人は判決を前に亡くなりました。
こうした中、岸田総理大臣が「被爆体験者」の医療費の助成対象にがんの一部を追加する考えを示し、去年4月からは胃がんや大腸がんなど7種類のがんに限り、助成の対象となりました。
厚生労働省によりますと、「被爆体験者」はことし3月末の時点で、全国で6323人いるということです。
裁判の争点は
裁判の最大の争点は、被爆者の定義の1つとして被爆者援護法が定めている「原爆による放射線の影響を受けるような事情にあった」という規定に、原告の「被爆体験者」が該当するかどうかです。
いわゆる「黒い雨」をめぐる裁判で広島高等裁判所は、この規定を広く解釈し、「原爆の放射線によって健康被害が生じることを否定できない事情にあったと立証すれば足りる」という判断を示しました。
そして、原告の住民たちはいずれも「黒い雨」が降った地域にいて、雨や空気などに含まれる放射性物質を体内に取り込み、内部被ばくによる健康被害を受ける可能性があったとして、全員を被爆者と認めました。
この判決が確定したことを受けて、今回の「被爆体験者」の裁判で原告側は、「広島高裁の判断と同様に法律の規定を解釈すべきだ」と主張しました。
そのうえで、原爆投下から間もない時期にアメリカ軍が行った調査で『残留放射線』が広い範囲で検出されたとする報告書や、原告らがいた地域に灰や雨が降ったとする当時の証言などを踏まえ、「内部被ばくによる健康被害を受けたことは否定できない」として、被爆者と認めるよう訴えました。
これに対し、長崎市と県側は、広島高裁が示した規定の解釈は誤りだとして、「原爆の放射線によって健康被害を受ける危険性があることが、客観的な根拠に基づいて認められることが必要だ」と反論しました。
そのうえで、「原告側が示した調査報告書などは信頼性や正確性を欠いている。原告らが敗訴した過去の裁判の判断と異なる判断をすべき事情は認められない」として、訴えを退けるよう求めました。
被爆者への認定 求め続けて
裁判で原告団長を務める「被爆体験者」の岩永千代子さん(88)は、これまで17年にわたって被爆者への認定を求め続けてきました。
原爆が投下された当時は9歳で、畑仕事の手伝いを終え、爆心地からおよそ10.5キロの地点を自宅に向かって歩いていました。
原爆がさく裂したときの状況について、岩永さんは「ぱーっと光をかぶり、太陽が目の前で爆発したようでした。子どもながらに、『やられた、死んだ』と思いました。あの衝撃は一生忘れません」と振り返ります。
その直後から岩永さんは髪が抜けたり、歯ぐきから出血したりする症状が出て、成人してからも甲状腺などの病気を患い、入退院を繰り返しました。
ところが、原爆が投下された際にいた場所は、国が定める地域の外だったため、被爆者と認定されず、医療費などの支援は受けられませんでした。
その後、国が2002年から始めた「被爆体験者」の制度でも、「原爆の放射線による直接的な影響は認められない」として、医療費の助成は原爆の体験が原因とみられる精神的な症状などに限られました。
こうした中で、岩永さんが同じ境遇の「被爆体験者」に聞き取りを進めたところ、がんや白血病などを発症した人が相次いでいました。
さらに、原爆が投下された後に灰や雨が降ったと証言する人が多くいたことから、「被爆体験者も放射線の影響を受けているのではないか」と強く感じるようになったといいます。
岩永さんは2007年、「被爆体験者」とともに集団訴訟を起こし、原告団の中心となって被爆者と認めるよう訴え続けました。
しかし、最高裁判所まで争った結果、一連の裁判では500人を超える原告の敗訴が確定しました。
2018年、岩永さんは仲間とともに再び訴えを起こしましたが、高齢化に伴って原告の数は44人にとどまり、裁判の途中で4人が亡くなりました。
「被爆体験者が生きている間に救済を実現してほしい」と17年にわたって願い続けてきた岩永さん。9日、判決の言い渡しを迎えます。
岩永さんは「判決では被爆体験者にも原爆の影響があったと認めてほしい。病気の原因が、降り注いだ灰などによる内部被ばくだとわかれば、みんなが安心すると思う」と話しています。
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