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太平洋戦争によって家族が引き裂かれ、フィリピンで現在も「無国籍」の状態に置かれている残留日本人2世。しかし、日本国籍回復へのハードルは依然として高く、80代、90代となった残留日本人は次々と亡くなっている。「終戦80年を前にしたこの1年がラストチャンス」。支援者が焦りを募らせる中、日本政府はこの現実をどう受け止めているのか。時間との闘いの中、異国の地で国籍回復を願い続ける人たちの今を、再び追った。

(テレビ朝日報道局 松本健吾)

■沖縄で見つかった“父”の記録 実現した親族対面で悲願の国籍回復へ

フィリピン・コロン島に住むアカヒジ・サムエルさん(82)。日本人の父とフィリピン人の母を持つ。「アカヒジ・カメタロ」という名の父は戦時中、フィリピンゲリラに殺害されたというが、生後間もなかったサムエルさんは、父の顔を覚えていない。

国籍取得に必要な手続きの一つである、両親の婚姻書類なども残されておらず、残留日本人2世の国籍回復を支援する「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」も、手詰まり状態が続いていた。

「日本に来れば、情報が集まるかもしれない」

同センターが日本国内で情報提供を呼びかけると、「アカヒジ・サムエルさんの親族かもしれない」という連絡が沖縄から届いた。

沖縄でも珍しい「赤比地」(あかひじ)姓。うるま市平安座(へんざ)に多い苗字だった。

私たちは昨年12月、沖縄へ飛んだ。

赤比地家にルーツを持つ人たちが集まる公民館に行くと、手書きの家系図や写真が所狭しと机の上に並べられていた。複数の証言と家系図をつなぎ合わせると、「赤比地勲」という人物にたどり着いた。

1928年にフィリピンに渡っていた勲さん。取材を続けると、次のことが判明した。 ・当時沖縄では、本名とは別に親族の名前を組み合わせて別名を使うことがあったが、勲さんの姉の名前が「カメ」、父の名が「タロ」で、合わせるとサムエルさんが話す父の名「カメタロウ」に近い「カメタロ」になること ・勲さんの姪が、「父親から『叔父(勲さん)はフィリピンに妻子がいた』という話を聞いていた」と証言したこと ・赤比地家の先祖代々の名が記載された書類には、勲さんの妻の欄に「イリミンテーナ」の名が記されており、サムエルさんの母の名「クレメンティーナ」と似ているということ 次のページは ■“父”の墓に向かう車内 記者に見せた不安な表情

■“父”の墓に向かう車内 記者に見せた不安な表情

「赤比地勲」さんがサムエルさんの父・カメタロウの可能性が高まってきた。

同センターを中心に、サムエルさんの来日を実現するためのクラウドファンディングが立ち上がり、昨年末にはサムエルさんの来日が実現。那覇空港では、赤比地勲さんの10人ほどの親族が出迎え、「いとこ、いとこ!」とサムエルさんと抱き合う姿があった。

後日、勲さんの墓へ向かうサムエルさんに私たちも同行した。車内でのサムエルさんはどこか不安げな表情を浮かべていた。

「僕を捜してくれていたか、(親族に)聞かない方がいいかな」

独り言のように、自分に言い聞かせるようにつぶやいたその言葉は、やっと見つけた父の祖国・日本とのつながりを失いたくない、という思いだったように、私には聞こえた。

そしてこの出会いが、新たな展開を生んでいる。

今年11月、サムエルさんが暮らすフィリピン・コロン島に赤比地家の親族が訪れることが決まったのだ。サムエルさん自身も、今回沖縄で見つかった家系図や証言などを新たな証拠として家庭裁判所に提出。国籍回復のために必要な戸籍を作るための手続き「就籍」の申し立てを行った。

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■無国籍残留2世 最後の願い「日本人として認めてほしい」 

■無国籍残留2世 最後の願い「日本人として認めてほしい」 

今年7月、私たちは在ダバオ日本国総領事館の石川義久総領事が行う、残留2世への聞き取り調査に同行するために、再びフィリピン・ミンダナオ島を訪れた。

私たちが新たに出会った2人の女性はともに「日本人として認めてほしい」と訴えた。

コダイラ・チエコさん(83)。父「コダイラ・トメオ」さんは、戦前、ダバオでアバカ業に従事していたが、戦時中に行方不明になったという。コダイラさんによると、父には兄が2人いて、同じくダバオへ移民したものの、うち1人は事件に巻き込まれ殺害されたという。

また、父はセブ島の「ミヤコバザール」というところでマネージャーとして働いていたこともあり、オーナーの名前は「ナカムラタツサブロウ」さんだったと聞いた。父の兄のうち、一人は名を「シゲオ」ということも、生前の母から聞いたと話してくれた。

私たちの今回の取材中に、1枚の写真が新たに見つかった。それは、父と母の結婚式と思われる写真だ。父の顔の部分は欠けているが、母のウエディングドレス姿が収められていた。

コダイラさんは「婚姻関係の証明にできれば…」と話し、写真は「就籍」申し立ての証拠として提出される予定だ。

・父の名は「コダイラ・トメオ」。戦時中、行方不明に
・ダバオでアバカ業に従事しセブ島「ミヤコバザール」でマネージャー
・1929年、「小平留雄」という人物が兄とフィリピンへ渡航した記録が見つかる

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■手がかり見つからず20年以上 取得願い亡くなった人も

■手がかり見つからず20年以上 取得願い亡くなった人も

だが、サムエルさんやコダイラさんのように進展がある人ばかりではない。証明できる書類が見つからず、時だけが経過している人もいる。

カンバ・ロサリナさん(93)。洗礼記録には、父親の国籍の欄に「Japan」と記載されているものの父子関係を証明する書類がなく、進展がないまま20年以上が経過している。

母から父の名前は「カンバサン」と聞いていた。取材を進めると、父の名は、「カンバ・リタ」で、米軍の“捕虜名簿”には「神庭利太」という人物の名前が確認された。戦後、日本に強制帰国されたようだ。

ロサリナさんは「神庭ロサリナ」の名での国籍回復を求めている。

カンバ・ロサリナさん(93)
・父の名は、「カンバ・リタ」 苗字は“神庭”の可能性
・米軍の“捕虜名簿”に「神庭利太」という人物の名前。戦後、日本に強制帰国の可能性
・父はダバオ市内で“ナガミネ”という人物が経営するアバカ農園で勤務

■次々と亡くなる残留2世…“終わらぬ戦争”を伝えるということ

歴史の片隅に取り残されてきたフィリピン残留2世。

今年、日本政府の姿勢にも変化が生まれた。5月、在フィリピン日本国大使館の花田貴裕総領事が残留2世の暮らす離島まで足を運び、1人ずつ面接を実施。「今日まで訪問できなかったことを心からおわびします」と語りかけ、一日も早い国籍回復のため最大限の支援を約束したのだ。

5年前、1069人と把握されていた国籍を持たないフィリピン残留日本人2世の数は、401人にまで減少。日本国籍の取得を最期まで信じ、亡くなった人も多い。

私はこれまでに10人以上の無国籍の残留2世の声を聞いてきた。

彼らの“生き別れた父とのつながり”を求める思いに触れると、終わらぬ戦争の痛みが戦後79年経った今も残されているという事実に、胸が締め付けられる。

「この取材が、放送が、1人でも多くの国籍回復につながって欲しい」。そう信じ、これからも現地に足を運び続ける。

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