元日の能登半島地震から半年が過ぎ、政府や被災自治体では、初期対応などの検証がようやく始まった。2011年の東日本大震災を機に、災害医療の道に進んだ福島市の医師・小早川義貴さん(47)は、厚生労働省の災害派遣医療チーム「DMAT」(ディーマット)事務局員として現地に駆け付けた。いまだ復興途上にある福島から見た能登半島地震とは。(片山夏子)

◆「もっと助かった命があったかもしれない」

 「あと半日早く動けたのではないか」。小早川医師は初動の遅れを悔やむ。石川県がDMAT事務局を通じ、隊員の派遣を要請したのは、発生から約18時間後の1月2日午前10時前。「県の要請を待たずに国が独自に判断し、少しでも早く被災地に入るべきだった」

打ち合わせをする小早川義貴医師(右から2人目)=2月28日、石川県珠洲市で

 同6日、大きな被害が出た石川県珠洲市に入った。崩れた家々、土砂崩れや亀裂、段差だらけの道を車で走った。「とんでもない被害だった」。孤立集落が多発し、死者や行方不明者が続出。ただ、124時間後に救出された人もおり、「もっと助かった命があったかもしれない」と感じた。

◆能登の被災地は避難所に問題があった

 小早川医師は東日本大震災が起きる前、島根県で被ばく医療を担う病院で救急医療に従事。東京電力福島第1原発事故後、福島では作業員の被ばく対応などで医師を待機させたが、勤務先の病院は「危険な場所には派遣できない」とした。だが、被ばく医療を担う病院なのに現地へ行かないことへの疑問を感じ、災害医療に取り組もうと思った。  国立病院機構災害医療センター(東京都立川市)の客員研究員に転じ、DMATの活動に力を入れた。2016年の熊本地震、2018年の西日本豪雨などの現場でも経験を積んだ。  能登半島地震では特に、避難所の環境の悪さにがくぜんとした。避難所は人であふれ、多くの人が土足で出入りする中、床に段ボールを敷いて寝たり、仕切りがないなど衛生面やプライバシー面で問題があった。過密状態の解消には人を減らすしかないが、「地元を離れたくない」と2次避難の希望者は少なかった。

◆病院を存続する難しさを知る身として

全国各地から集まった医師や看護師、事務職員などが朝、現場に行く前に集まり、各班からの現状報告を聞く=2月、石川県珠洲市で

 小早川医師は今も、DMAT事務局員として毎月能登に通い、福島第1原発から30キロ圏内で唯一診療を続けてきた高野病院にも、医師として応援に入っている。「能登も住民が今後どれだけ戻るかや、医療従事者の離職などで病院の存続が問題になってくる」。地元のかかりつけ医が住民を診る重要性を感じる一方、住民が減る中で病院を存続することがどれほど難しいかを福島で痛感してきた。  能登半島地震の課題を検証するため、政府の中央防災会議に作業部会を設け、石川県も検証委員会を立ち上げる予定だ。初期対応や避難所運営の在り方などが論点になる見通しだが、小早川医師は地域の医療体制の検討も促す。  「大事なのは既存の施設を活用し、必要な医療をどう維持するのか。地域全体での医療や福祉計画と、柔軟な支援が必要になる」

 DMAT 災害派遣医療チーム。1995年の阪神淡路大震災では急性期の医療班がなく、その反省から2005年に発足した。被災都道府県からの要請で被災地以外の隊員が派遣されるが、要請が困難な場合は、所管の厚生労働省の判断で派遣できる。1チームは医師1人、看護師2人、業務調整員1人が基本。能登半島地震では1139チームが入った。



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