能登半島地震で崩れた金沢城の石垣=4月27日、金沢市で
◆加賀藩職人の高い技術、明治期に途絶える
28カ所のうち、23カ所は石垣の壁面が膨らむなどの変形にとどまったが、江戸―昭和期に造られた5カ所が崩落した。特に小ぶりで軽量の石が使われた明治期の石垣で被害が大きく、階段状の本丸南側では最多の364個、旧陸軍のトンネルがある本丸北側では124個の石が落ちた。いずれも地震前から局所的な凹凸などがあり、県の調査で要注意箇所とされていた。 金沢城の石垣は年代や場所ごとに積み方が異なり「石垣の博物館」と呼ばれる。研究所によると、江戸期には3回の大きな地震に見舞われた。1662(寛文2)年、1799(寛政11)年、1855(安政2)年の地震で、崩落があったとみられる。 当時の加賀藩には、藩お抱えの石垣の専門職人「穴生(あのう)」がおり、高い技術を誇っていた。だが明治期に入ると藩はなくなり、それに伴って穴生もいなくなった。研究所の担当者は「明治期以降は穴生の技術や知識が継承されておらず(石垣の)ポテンシャルが低い。今回はそれが崩れた」と説明する。今回の地震での被害は、明治期以降で最大という。◆熊本城の復旧見込みは大幅遅れ、金沢城は…
修復に向けて助言を受けるため、県は4月中旬、考古学や地盤工学などの専門家5人でつくる会議を開催。専門家からは「歴史ある石垣を補強しながら、できる限り後世に残してほしい」と原形復旧と耐震性の両立を図りながら、修復すべきだとの意見が出た。県は今後、文化庁とも協議しながら具体的な工法を検討する。 2016年の熊本地震で被災した熊本城(熊本市)は工法の検討に時間を要し、完全復旧の見込みが当初より15年遅い52年度となった。金沢城の復旧も長期化する恐れがある。金沢城 戦国期の1546年、浄土真宗本願寺の拠点「金沢御堂」が創建されたのが始まり。織田信長配下の柴田勝家が80年に御堂を攻略し、初代城主の佐久間盛政が城づくりに着手。83年に加賀藩祖の前田利家が入城してからは、度重なる火災や地震に見舞われながらも、明治期の1869年まで加賀藩前田家の居城だった。太平洋戦争の終戦まで陸軍が管轄した後、1949年には金沢大が開学し、95年に金沢市郊外に移転するまでキャンパスとして使われていた。現在は周辺が金沢城公園として整備されており、2008年に国史跡の指定を受けた。
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。