花山天皇を出家に追い込んだ道兼。写真は花山天皇が出家した元慶寺(写真: くろうさぎ / PIXTA)今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は道長の兄、藤原道兼の死の背景を解説します。著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

一条天皇と道隆・伊周父子の思惑のズレ

藤原道長の兄であり、関白だった藤原道隆は、995年に43歳でこの世を去ります。その年は疫病が流行しましたが、道隆の場合は、疫病ではなく、度重なる深酒による糖尿病が死因だったようです。

道隆は内大臣となっていた我が子・伊周に、自分の後を継いで、いずれは関白になってほしいと考えていました。もちろん、伊周もそれを望んでいました。

しかし、一条天皇は別の思いを抱いていたようです。一条天皇と道隆・伊周父子の思惑のズレが周囲の混乱を招きます。

一条天皇は「関白(道隆)が病ではあるが、政務に関連する文書や宣旨(天皇の命令を伝達する文書)は、まず、関白に見せてから、続いて内大臣(伊周)に見せ、奏聞(天皇に言上)すべし」と考えていました。

その旨は、頭中将(藤原斉信)から、伊周に伝えられます。ところが、伊周はそれに異を唱えるのです。

「天皇の御命令が違っています。関白からは、関白が病の間は、内大臣(伊周)が中心となり政務を担当せよと承っていたのです。そうであるのに、天皇はまず関白に文書を見せて、続いて内大臣に見せよと仰せになります。これはどういうことでしょうか」と。

伊周の主張は、一条天皇にも伝えられます。この抗議を受けて、一条天皇は道隆の意向を尊重し、伊周を内覧(関白に準じる職)に任命します。

しかし、それでも不満を持つ人々がいました。伊周の母方の叔父である高階信順です。

高階氏は、宣旨に「関白病間」とあったのを「関白病替」と、病の期間だけではなく、関白の地位を完全に譲るように変更せよと、大外記・中原致時に迫ったといいます。高階氏の強引な要求は許されることはありませんでした。

父に対して不満を抱いた道兼

伊周にとって強力な後見であった父の死は、大きな痛手となりました。

後継の関白には、道隆の弟・藤原道兼が任命されます。伊周の内覧の職は、停止されてしまいます。前述したような、伊周方の強引な駆け引きで、天皇に嫌われた可能性もあるでしょう。

さて、新たな関白に就任した道兼ですが、彼も自由奔放で酒飲みの兄(道隆)と同じように、キャラが濃い人物でした。道隆は、容姿端麗でしたが、道兼はその逆で「顔色は悪く、毛深く、格別に醜かった」(『栄花物語』)ようです。

一方で性格は「老巧」(老練)で、男らしく、兄・道隆に対しても、つねに教え、諭すような人物だったとも書かれていますが、『大鏡』では道兼の性格に関してもよくは記していません。「無情な、酷いところがある」「人に怖がられる人であった」と書かれているのです。そして「だから、その子孫が栄えるのを見ずに終わった」とまで記されます。

道兼は、父・兼家の喪中であっても、慎むことはしませんでした。御簾を片っ端から開けさせ、念仏・読経をしなかったのです。そればかりか、人々を呼び集めて、『古今集』(古今和歌集)や『後撰集』(後撰和歌集)を見つつ、「戯言」に興じました。父の死を少しも悲しむようには見えなかったようですね。

とはいえ、道兼にも父である兼家に対する想いがあったようです。道兼は、父・兼家とともに、花山天皇を出家させたことで有名です。兼家は自身の孫である懐仁親王の早期の即位を望んでいたので、花山天皇の退位を画策したのでした。

花山天皇 紙屋川上陵(写真:クロチャン / PIXTA)

それに協力したのが、道兼です。彼は天皇を内裏から抜け出させ、後ろ髪を引かれる想いの天皇を口説いて、元慶寺まで連れて行きました。道兼には(自分こそが、花山天皇を退位させた功労者)との想いがあったのです。

しかし、父の後任の関白には、兄・道隆が任じられます。道兼は、これに不満を抱いたのです。

先程述べた道兼の喪中の行いは、関白職が譲られなかった恨みからだと言われています(『大鏡』)。そんな道兼に、兄の死を受けて、念願だった関白の宣旨が下ります。道兼はたいそう喜んだといいます。その日のうちに、喜んで参内(宮中に参上)したのでした。

ところが参内する際に、道兼は、少し体調を悪くしたようです。道兼は(これは一時のことであろう。これくらいのことで、中止してはいけない)と体調不良ながらも、参内します。

すると、みるみるうちに、体調は悪化。殿上の間から退出することもできなくなるのです。人に寄り掛かり、何とかして退出する道兼。それを目撃した人々は(どうしたことか)と驚いたといいます。

一方で、道兼の邸は、主人の関白就任の喜びに包まれていました。殿のお帰りを今か今かと待ち侘びる人達。そうであるのに、主人が介抱されながら、苦しそうに帰宅したのだから、その驚きはどれほどのものだったのでしょうか。

邸の者は「殿はもしかしたら、亡くなられるのか」と裏でヒソヒソと噂し合ったようですが、表では「大丈夫でしょう。すぐによくなるはず」と言い合ったとのことです。

顔が青ざめていた道兼

病に倒れた道兼のもとには、藤原実資がやって来ます。実資は日記『小右記』の著者として有名です。

道兼の関白就任の祝いにやってきた実資でしたが、道兼との対面は異様なものでした。母屋の御簾は下され、道兼は床に伏せていたのです。道兼は実資に何やらいろいろと話しますが、言葉は途切れ途切れで、何を喋っているか正確にはわからなかったようです。

ただ、概ね次のようなことを話しているのではと、実資は推測しました。

「気分がとてもすぐれませんので、座敷に出て対面することができず……。こうして伏せながら、物を隔てて申し上げます。

君(実資)のご芳情に対しては、心中、密かに感謝しておりながら、御礼を申し上げずに過ごして参りました。この度、このような身分になりましたので、公私につけて、恩返しできればと思います。

また、事の大小によらず、相談したいと思いますので、無礼とは思いましたが、このように取り乱したところにご案内したのです」。

こう話す道兼の息遣いは、とても苦しそうでした。そのとき、風が吹いて、御簾が吹き上げられます。隙間から見える道兼の姿。その顔は青ざめ、死相が見えたそうです。意識を失ったかのような有様でした。

そうでありながらも、将来のことをいろいろと話す道兼。それは「実に無残」でありましたと『大鏡』には書かれています。

995年4月27日に関白宣下を受けた道兼でしたが、病により、5月8日に亡くなります。余りにも短い関白ということで、道兼は「七日関白」と称されています。

道長の前にライバル立ちはだかる

流行していた疫病による死だと言われています。同じ年、現役の公卿が8人も亡くなっていますが、その多くは疫病とのことです。

道隆・道兼という兄が相次いで亡くなり、いよいよ道長政権の誕生かと思いきや、道長の前にはまだ立ちはだかる壁がありました。それが、道隆の子・藤原伊周だったのです。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

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