「本当に偶然だった。目の前で起きている現象に鳥肌が立った」。東北大学の栗栖実助教は、発見の瞬間をこう振り返る。当時はまだ博士課程の学生で、いつものように人工細胞を合成する実験に取り組んでいた。少し休憩をした後に再び顕微鏡をのぞいたところ、大きな人工細胞を取り囲むようにして小さな人工細胞が20個ほど並んでいた。じっと観察していると、合成したばかりの人工細胞が次々に分裂していた。栗栖助教は「人工細胞の合成を終えて、ちょうど帰ろうとしていたところだった。すぐに同じ条件で合成したところ、次々に分裂する現象を再現できた。それから我を忘れて何時間も実験を続けた」と振り返る。
実際の生物の細胞はリン脂質を主成分とする二重膜で覆われており、分裂するための複雑な機構を備えている。いくつもの酵素がかかわる何段階もの化学反応によって細胞膜の材料を合成し、収縮環というリング状の構造を形成して2個の細胞に絞り切る。こうした精巧な仕組みをまねた人工細胞を作成する研究も進んでいる(詳しくは日経サイエンス2024年3月号「生命を創る」)。それに対して、栗栖助教が合成した人工細胞はとても単純な仕組みで分裂する。なぜ安定して分裂する人工細胞が得られたのか。当時はまだわからなかったが、その後の解析によって成功のカギになった条件が見えてきた。
一つは浸透圧だ。当時、位相差顕微鏡で観察しやすくするため、屈折率が異なる別々の溶液で人工細胞の内外を満たしていた。外部は単糖のフルクトース溶液、内部は二糖のスクロース溶液を選んだ。二糖は人工細胞の膜を透過しないが、単糖は透過して外部から内部に流入する。このとき浸透圧が生じて水も一緒に入り込み、人工細胞は膨らんで大きく成長した。外部の溶液には膜の材料になる分子も存在し、それらを取り込んで細胞膜の表面積も増大していた。
分裂を促す条件は人工細胞の膜の組成にあった。合成した細胞膜は円筒形と円すい形の2種類の脂質分子からなる二重膜で作られている。円すい形の分子が膜に挿入されることで、膜は一定以上の曲がり具合(曲率)があるほうが安定した状態になる。人工細胞が膨張して成長すると、次第に細胞の半径が大きくなって曲率は小さくなる。こうして限界を超えると、人工細胞は自発的にひょうたん形となり、くびれたところで分裂するようになる。
浸透圧がないと人工細胞は成長せず、円すい形の分子を使わないと分裂しないことも確かめた。当時の実験は偶然にも両方を満たす条件がそろっていたというわけだ。浸透圧の差や膜の組成を変えてさまざまな条件を試したところ、分裂するうちに人工細胞は少しずつ小さくなっていったが、1分に1回ほどのペースで最大300回分裂していた。栗栖助教は「細胞分裂という複雑な機能を最小限の要素だけで実現できた。これまで膜は自発的には分裂しないとされてきたが、その常識を打ち破ることができた」と語る。
開発した人工細胞は「浸透圧産卵小胞(Osmotic Spawning Vesicle)」と名付けた。英語の頭文字をとった略語は「OS小胞」になる。栗栖助教は「コンピューターを動かす基本ソフトウエアのOS(Operating System)を意識した。簡単な条件さえ整えば分裂するこのシステムは、人工細胞の分裂を担うOSになりうる」と力を込める。
(日経サイエンス編集部 遠藤智之)
詳細は10月25日発売の日経サイエンス2024年12月号に掲載
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