元日の能登半島を襲った地震から1年。被災地で見えてきたのは、復旧のまだらな現状でした。小木キャスターが取材しました。
この記事の写真奥能登への大動脈、『のと里山海道』。9月、全線で対面通行が可能になりましたが、その景色は、震災前とは大きく変わっています。
小木キャスター「私が2月に来たときには通れなかった箇所です。穴水のあたりでしょうか。ここも大きくカーブしてます。工事車両がたくさんあって、何とか直そうとしてますね」
輪島市に入ると目に飛び込むのは、傾いた街並み。復旧の途上にある場所もあれば、あの日から何も変わらない景色も。
元日の夜、炎に包まれた、歴史ある『輪島朝市』。基礎や骨組みが残されていた現場は、いま、どうなっているのでしょうか。
小木キャスター「ここが輪島朝市周辺、このあたりは激しい火災によって、建物が広い範囲で焼け落ちてしまった場所です。そこが、いまや広大な更地になっていますね」
地震に加えて、津波被害が甚大だったのが、珠洲市です。中でも、海に面する宝立町には、地震から1カ月後、小木キャスターが訪れていました。当時は、倒壊した家屋が道をふさいでいましたが、いまでは、更地のほうが目立つようになっています。
この町で以前出会ったのが、干場美智子さん(83)。海沿いの自宅は、地震と津波にやられ、何も手を付けられない状態でした。
あれから10カ月半。再び、干場さんを訪ねました。
干場美智子さん「(Q.家は変わってない?)だんだんひどくなってます。津波が来たでしょ。9月21日、川が氾濫したんです。家の中にも、また床上(浸水)です」
9月、奥能登を襲った記録的な豪雨。宝立町でも、浸水などの被害が出ました。
地震と津波、そして追い打ちをかけた豪雨災害。干場さんは、40年以上続けてきた家業、ところてん工場の廃業を決意しました。
干場美智子さん「1年も経てば踏ん切りがついた。年齢も年齢ですし、あきらめてます」
干場さんは、現在、夫と2人、仮設住宅にいます。この暮らしをいつまで続けることになるのか、先の見通しが立たないのが、気がかりだといいます。
干場美智子さん「(仮設の期限が)2年・3年とか教えてもらえれば、それなりに何かするじゃないですか。それが全然まだわからない。計画が立たないというか」
同じ珠洲市内には、仮設住宅の建設が遅れ、避難所暮らしを余儀なくされている地区がありました。
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■豪雨でも孤立…いまだ避難所も豪雨災害の爪痕が今もくっきりと残る珠洲市・大谷地区。災害のたびに住民が身を寄せてきた避難所『大谷小中学校』です。
地名坊暢子さん(86)。一度は、家族とともに、ほかの市へ避難しましたが、一人、ここへ戻ってきたそうです。
地名坊暢子さん「珠洲の大谷というところへ。たとえ不便でも生まれ育った所やし、行きたいなあと思って。誰としゃべっても親しみがある。やっぱり生まれた所がいいなぁと」
この避難所を、1年近く守ってきたのが、区長会長の丸山忠次さん(70)です。
避難所の水道は、ようやく12月に入ってから復旧。しかし、地区の中には、いまだに水が出ない集落が、いくつもあります。
丸山忠次さん「震災で5月ごろまで断水していた。そのあと復旧はしていた。ところが豪雨災害で、またダウンした」
地震と豪雨の二重災害は、水だけでなく、住まいの再建も遅らせました。
丸山忠次さん「(Q.1年この生活を続けるというのは)考えられないですね」
もともと遅れていた仮設住宅ですが、豪雨によって、さらに建設が遅れ、先日、ようやく、避難所の隣に完成しました。丸山さんは、避難所にいる人たち全員が、早く、ここを出られることを望んでいます。
丸山忠次さん「(Q.ここで年越しはさせたくない)そりゃそうですよ。自分の部屋で家族と一緒に、それが本来の姿でしょ」 この記事の写真を見る
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