1966年に静岡県で一家4人が殺害された事件で再審無罪が確定した袴田巌さんが11月29日、9年ぶりにボクシングの聖地・東京後楽園ホールに来場した。
【映像】名誉チャンピオンベルトを巻く袴田さん
袴田さんは、1959年11月にプロデビュー。元全日本フェザー級6位にランクし、国内最多記録となる年間19戦に出場した記録を持つ。そして現在はWBC世界フェザー級名誉王者だ。
9年前の聖地訪問の時はまだ死刑囚だったが、今回ようやく無実の身となり 聖地を訪れた。試合の合間には、姉のひで子さんからリング上で無実の報告が行われた。
「実は巌も今日は来ているんです。リングに上がるようにしていたのですが、急に何か機嫌が悪くなりまして。楽しみにしておったのですが。それがほんの5分前に『ウチに帰る』なんて言いまして。まぁそれが病気でございましょうが。無罪判決が決まりました、死刑囚ではなくなりました。本当に皆様の応援のおかげ、支援のおかげで、今の結果があると思っております。ありがとうございました」(ひで子さん)
今回、聖地帰還として袴田さんを会場に招くため尽力したのが川崎新田ジムの会長・新田渉世(にった しょうせい)さんだ。横浜国立大卒というプロボクシング界で初の国立大ボクサーとしてリングに立ち、34戦23勝、東洋太平洋バンタム級王者としてチャンピオンベルトも巻いた実績がある。
1997年に現役を引退しジムを立ち上げてからは、教育学部だった経験も活かし人間教育と地域貢献を掲げ、防犯を兼ねたロードワークなどを考案した。地元メディアに紹介されるほどだ。
現在、日本プロボクシング協会で理事を務める新田氏は2005年頃から、袴田さん支援に従事している。しかしジムを開いた当初は事件のことは深く知らなかったという。
「ジムのフィットネスの会員さんの方から『袴田事件って知っていますか』と聞かれて、そのときは全然知らなくて。いろいろお話を聞いていたら、取り調べの状況やひどい裁判の進め方など、おかしなことばかりで。とにかく動こうということで動き始めたんですけど…」(新田氏)
日本ボクシング界はこれまで、「無実のプロボクサー袴田巌を救う会」(1980年発足)や「袴田巌、再審支援委員会」(1992年発足)など袴田さんを支援する会を立ち上げて戦ってきた。
しかし、新田氏によると難しいことも場面もあったという。「先輩方は昔、本当に頑張ってやられたがダメだったと。『俺たちがやって駄目だったのに、お前に何ができるんだ』と反対だったが、とにかく皆さんにご迷惑をおかけしないので、とりあえず一人委員会でいいから、形だけつくらせてくれと」。
そして2006年、新田氏が中心となって「袴田巌再審支援委員会」が発足した。袴田さんの息子世代で、当初は事件のことなど知らなかった新田氏をそこまで動かしたものは“先輩ボクサーの凄み”だった。
袴田さんについて「年間で19試合戦うというのは、ちょっと想像がつかない。多分、ボクシングが袴田さんの中で本当にすべて、すごく大きな存在だった。ボクサーはそういう人が多いが、その中でも特に、本当に血肉というか魂というかというところにボクシングがあったのかなと思う」と語った。
さらに、姉・ひで子さんの存在も大きかった。「もうケタケタ笑って、笑い飛ばして『私はまだ戦うよ』と戦う秀子さんの姿は、本当に何回倒されてもまた立ち上がる、ボクサーよりもボクサーだ」。
最高裁の再審請求棄却も諦めずファイティングポーズを取る二人に、同じボクサーとして逆に「励まされてきた」という。今回、袴田さんが後楽園ホールに戻って来られたことは新田氏の支援の証でもあり、恩返しだった。
「協会として、袴田さんがもし試合を観に行きたいと言った時には、(今後も)ご招待するということを我々は考えている」(新田氏)
なお来場当日、袴田さんの体調は悪くなかったそうだが、会見には参加したものの拘禁反応の影響で記者の質問に対する受け答えは難しく、姉・ひで子さんは「精神状態に波がある」と話していたという。
(『ABEMA的ニュースショー』より)
・【映像】名誉チャンピオンベルトを巻く袴田さん・【映像】プロボクサー時代の袴田巌さん・姉・ひで子さん59歳“覚悟”の住宅ローン「借金でもあれば…」・経済力があっても2年… 冤罪事件で無罪を勝ち取った元社長・【映像】袴田巌さん、無罪判決後の言葉(実際の映像)鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。