松本サリン事件から30年。事件の第一通報者で被害者でもある河野義行さんが長野県箕輪町で開かれた講演で自身の体験を語りました。長野県警が家宅捜索、マスコミにより容疑者扱いされた当時の苦しみを話すとともに、改めて報道の在り方について批判しました。

■第一通報者であり、被害者

河野義行さん:
「事件から今年で30年が過ぎました。各メディアは勉強会とか講習会とか講演会とかいろいろやって当時の報道が何が問題であったのか、どうすればそういう過ちを犯さないで済むのか、そんなことを随分やったわけですが、実はメディアというのはですね。そういう誤報だとか人権侵害を起こさないための手法ですね、とっくにわかっているんですよ。わかっているけれどもそれが実践されてない。だから繰り返すんです」

松本サリン事件の第一通報者であり、被害者でもある河野義行さん(74)。11月24日、長野県箕輪町で開かれた「報道と人権」をテーマにした講演に講師として招かれ、自身の体験と当時の苦悩を語りました。

■マスコミが“犯人視”する報道

事件は1994年6月27日の夜。長野県松本市北深志で住民が原因不明の頭痛や吐き気、呼吸困難に襲われました。

犠牲者は最終的に8人、重軽症者は600人にのぼりました。

のちに、その原因は化学兵器にも使われる有毒物質「サリン」と判明。オウム真理教による犯行とわかりました。

サリンは河野さんの自宅近くで噴霧され、妻が心肺停止の状態に。自身も重症を負い、子どもも入院し治療を受けました。妻は13年間の闘病生活を経て、亡くなりました。

事件では、長野県警が河野さんの自宅を家宅捜索。マスコミが犯人視するなど、事件報道に大きな教訓を残しました。

■当時の苦悩…「世間では殺人犯」

河野さんは、当時の苦しみをこう語ります。

河野義行さん:
「結果的には松本サリン事件はオウム真理教の犯行であるということが分かるのが約1年間ですね。私は本当に厳しい状態で生活していたわけです。当時うち(家族)は5人、妻そして子供が高2、高1、中3、年ごろの時期だったわけですが、そんな中で突然事件が起こって妻は心肺停止、意識不明、結果的に13年間意識が戻ることなくなくなったわけですが、そして私も心肺停止、重症、そして長女ももう死ぬかと思った。そういう状況の中で親父は殺人犯、世間からそういうふうに思われてしまうそんな状況なんです。で、マスコミはこの男がやったらしい、こいつが犯人じゃないかという印象なんですね」

■「メディアは正しい情報を」

河野さんは、改めて当時の報道の在り方について、批判しました。

河野義行さん:
「メディアにとって一番大事なものは何か、それは誰よりも早くその情報を報道するあるいは記事に書いていく速報性ですね。一番でなきゃいけないっていう、そういう価値観が非常に強い。研究分野であれば2番は価値ないですよ。しかし報道は2番だって3番だっていいじゃないですか、それが正しくきちっと伝わる、伝えていくそちらの方が私は大事だと思う。メディアがやらなきゃいけないのは、自分たちが議論して得た結論を実践するそのことが大事じゃないかそんなふうに思います」

講演は箕輪町教育委員会と箕輪町人権尊重のまちづくり審議会が開いたもので、約350人が聞き入っていました。

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