目の前で倒れた築100年の酒蔵
あの日、目の前で起きたことは忘れられない。
ミシミシ、バキバキバキ…
大きな揺れと音とともに、築100年以上の酒蔵が大きく傾いた。木製の扉がつぶれ、屋根が流れるように落ちてきた。次の瞬間、幅5メートルの道路をふさぐ形で、高さ8メートルはある建物が崩れた。倒れた建物と自分との距離は、わずか4メートルほどだった。
石川県輪島市の観光名所「朝市通り」に立つ唯一の酒蔵、「日吉酒造」の日吉智さん(49)の脳裏に、いまも焼き付く記憶だ。
能登半島地震が起きた元日は、家族3人で初詣に行った帰りで、車を運転していた。午後4時6分、最初の揺れに襲われた。朝市通りにある店舗兼自宅に着く直前だった。スマホの緊急地震速報が鳴っていちど車を止め、走って裏手にある蔵の入口へ向かった。妻と6歳の息子も一緒だった。
中の様子を確かめようと、扉に近づいた瞬間、本震が直撃した。地面全体が回っている感覚に襲われ、踏ん張ろうにも立っていられなくなった。「子どもが飛ばされるんじゃないかというような勢いだったから、子どもを抱えて、うずくまって揺れがおさまるのを待っていた」揺れがとまる前に、目の前で、酒蔵が倒れてきた。
「スローモーションのような気もするし、一瞬だった気もする」
震える子どもの手を握りしめたまま、自分も動けなかった。当時の記憶はそれ以外ほとんどない。
ただ、「終わった」と思ったことを覚えている。
明治から大正に変わった1912年(大正元年)に創業し、日吉さんが5代目杜氏を務める。酒造りに欠かせない水は、創業時以来、敷地にあった深さ5メートルの井戸から汲み上げる弱硬水だ。地下水は、ミネラル分が発酵途中で栄養素に変わるといい、食事と一緒に楽しめる食中酒として、少し辛口ですっきりとした飲み口の酒造りを続けてきた。
年間、1升瓶1万本弱ほどを製造してきた蔵は、大正時代から建っていた土蔵と、数年前に一部、梁に鉄骨を入れて補強した木造でできていた。地震では木造の蔵は残ったものの、土蔵は完全に倒壊。鉄製の仕込み用タンクや、貯蔵酒が入ったタンク5個も、置台となっていた石からずれて中のホーローにヒビが入り、使い物にならなくなった。井戸には砂や泥が混じり、水位が低くなって水が汲めなくなった。それでも、日吉さんは、「正月でまだよかった」と話す。「毎年、三が日は蔵は休みにしているので、蔵人がいなかった。もしも従業員がここに来て作業をしていた時だったらと思うと…」。タンクの上に乗っかったままの、崩れた2階部分のがれきを見ながら、つぶやいた。
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主に地元客を対象とした生業を続けてきた。数年前からオンライン販売にも力を入れ、コロナをなんとか乗り切った。2年ほど前から、コロナ禍で落としていた生産量をまた戻し、頑張って行こうとしていた矢先だった。
震災直後、日吉さんは家族と一緒に歩いて近くの小学校や航空自衛隊輪島分屯基地などに避難した。朝市通りで火事が起きていると知り、1月1日の午後11時ごろ、店舗兼自宅の様子を見に行った。「早く火が消えてほしい」。それだけを願って避難所に戻ったが、炎に包まれる町を目にし、「うちも全部燃えるだろう」と覚悟した。
翌朝、再び戻ると、朝市通り一帯はまったく違う風景に一変した。だが、200棟以上を全焼させた大火は、「日吉酒造」の西側を走る通りで止まっていた。
「残ってよかったという気持ちも少しあるけど、知り合いのお店は全部焼けてしまって…」自宅兼店舗は延焼こそ免れたが、基礎にヒビが入り傾いたことで住める状態ではなくなった。何より、酒蔵は倒壊した。
しばらく、何も考えられなくなった。
石川県酒造組合によると、県内に33ある酒蔵のうち、輪島市、珠洲市、能登町を含む奥能登地区には3分の1にあたる11の酒蔵がある。いずれも全半壊の被害を受け、2つは今も再開のめどが立っていない。だが、8つほどの酒蔵が、酒造組合の仲介を経て、小松市や白山市、金沢市の酒蔵に製造委託をする形で再建を始めているという。
日吉酒造も、被災を免れた県産米約7トンを使い、かねてから付き合いがあった小松市の「加越酒造」の設備を借りて3月から本格的に酒造りを始めることができた。本来の6割ほどにとどまるが、出荷のめども立ち始めている。
「今回、業界の組合や同業の方の手厚いバックアップや支援、素早い動きを十分に感じました。今季の酒造りは無理だと思っていたのが、ちょっとできるかなというふうに変わってきているので、本当にありがたいと思う」しばらくは避難先の金沢市と酒造りをする小松市の往復になるが、輪島市に必ず戻りたいと話す。
次のページは 「朝市とは共存共栄」地元商店街のプライド「朝市とは共存共栄」地元商店街のプライド
「なくなってしまって改めてやっぱり、自分のふるさとだったんだなと思います。商店街の皆さんとまたここで再建するのが理想です。いろいろな事情もあるので一概に、というのは難しいかもしれない。でも、なんとかその道筋は見つけたい」
「商店街」とは、本町(ほんまち)商店街のことだ。
「朝市通り」と書かれた石柱から、西に約360メートル続く通りは、そのまま本町商店街とかぶっている。輪島の街中で一番店舗が多い商店街なのだという。
「全国的に見ると観光名所なので朝市通りなんですけど、僕たちからすると本町商店街です」
だから、「朝市」だけが復活してもダメなのだ。今回の大火災で失われた多くは、本町商店街の店舗でもあるからだ。
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乗り越えた二度の大火「あの時も隣で」乗り越えた二度の大火「あの時も隣で」
もう一つ、同じ場所で再建したいという思いを支える理由がある。
「昭和時代に大きな火事があったんですが、その時も、うちの店舗は焼けなかったんです」。日吉さん自身は生まれる前だったが、日吉酒造の真横で火が消し止められ、延焼を逃れたと父から聞いたという。
輪島市の重蔵神社の 禰宜(ねぎ)・能門亜由子さんによると、1958年(昭和33年)4月、朝市通り(本町商店街)の東側、日吉酒造店を含む一帯で火災が起きたという記録がある。以来、本町商店街を中心に、毎年春に鎮火祭を続けてきた。能登半島地震によって今春の鎮火祭は見送られ、再開の見通しはたっていないという。「火の神様というんでしょうか。そういうものに守られたという思いもあって、踏ん張ってでもここでやり直したい」。日吉さんはそう話す。
「でも、うちだけでは難しい。人と人とが交流する場所という意味では朝市も本町も同じ。地元に愛されてきた場所だからこそ、お互いに協力して観光客を呼び戻すきっかけづくりをしていきたい」
(取材:今村優莉 撮影:井上祐介・石井大資)
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