津波で流れてきたがれきから、自動車整備工場の店長が1本のギターを見つけた。その音に背中を押され、十数年ぶりに歌手活動を再開した。持ち主を捜しながら、「あの時」の記憶を風化させまいと歌い続けている。
4月中旬、盛岡市の酒造会社「あさ開」であったチャリティーコンサートのステージに、岩手県山田町の佐々木健児さん(50)が立った。酒にちなんだ歌を2曲。ハイトーンな声で聞かせた後、傍らに置いていたギターに持ち替えた。
「ちょっとだけ、お話しさせてださい」
2011年3月11日午後、佐々木さんは自宅の隣町にある大槌町の自動車整備店で仕事中に大きな揺れを感じた。「山手の農家の生まれで、津波の意識が薄かった」。波に追いかけられている人を見てから驚いて、店員2人と近くの斜面にあった階段から国道に駆け上がった。店はあっという間に津波にのまれていった。
翌日、家族の無事を確認後、「みんなが働く所に早く戻さなければ」とスコップを持ってがれきの片付けを始めた。その姿を見た店員が、2人、3人と集まってきた。
何週間かして、敷地に流れ込んでいたがれきから、黒いギターケースを見つけた。解体業者のトラックに投げ込まれそうになったのを「待って」と引き留めた。中を開けると、傷はあったが、修理して弦を張り替えれば使えそうだった。
「YAMAHA FG―201B」。何十年か前、始めたての若者がよく持っていたギターだった。やんちゃだった若い頃を思い出した。
盛岡市の高校をやめ、流しの歌手だったマスターのカラオケバーで働き、歌を覚えた。18歳で歌謡祭の全国大会で決勝まで残ったこともある。4年ほどミュージシャンを目指したが、体調を崩すなどして断念。子育ての環境も考えて帰郷し、自動車整備の仕事についていた。
ギターを自分で修理して弾いてみた。「背中を押してくれるような音」がした。再び音楽を始めた。3年ほどしてステージ活動も再開。自ら作詞し、知り合いのプロ作曲家に曲を提供してもらうなどしてオリジナル曲も作り始めた。
直したギターは新たに店長となった釜石市内の店に飾って持ち主を捜している。ステージで使うことには罪悪感があったが、先輩歌手らに「弾いてあげたほうがいい」と勧められるうち、ためらいがなくなった。
「震災を忘れかけている。たまに思い出し、備えてもらったら」。そんな思いで歌の合間にギターの経緯を話している。だんだん演奏の依頼が増え、最近は毎月のようにステージに立っている。
昨年、50歳になったのを機に、「半世紀(未来への軌跡)」というCDを自費制作した。収録曲の一つ「ほたるの里」は、移住者が大船渡に造った「ゆめほたる池」をイメージして詞を書いた。
「震災の歌は他の人がたくさん作ったから」と手がけない。でも、「環境のいい場所に人は来る。自然豊かな三陸に歌で呼び込めれば」と復興に一役買っている。
能登半島地震など災害は世界中で後を絶たない。「みんなで手をつないでいきましょう」。5月4日午前には、滝沢市のビッグルーフ滝沢でステージに立つ。(東野真和)
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