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能登半島地震の発生から1日で4カ月が経った。大規模な火災で壊滅的な被害を受けた石川県輪島市の観光名所「輪島朝市」をめぐり、復興に向けて少しずつ歩み始めている人々と、再建を決意する輪島朝市組合長の思いを聞いた。

4月23日。

輪島朝市と、露店が立ち並んでいた本町商店街の復興に向けて、街づくりの在り方を考える検討会の第1回目が開かれた。輪島朝市組合と、本町商店街振興組合から20~40代の若手店主ら十数人が参加、復興に向けた未来へのビジョンについて意見交換した。

行政側として参加していた輪島市職員の古戸直美さんによると、7月までに複数回の議論を重ね、復興案として市に提出する。2年後の2026年1月に営業再開できることを目標とし、2028年には観光客数を50万人まで復活することを目指すという。

検討会では、「若手の作家が作品を展示できるような“チャレンジショップ”があると良いのでは」「子どもがワクワク楽しめたり、家族連れが長時間滞在できるような町にしたい」といった意見がでるなど、未来の輪島朝市を真剣に議論する若手店主たちの姿が印象的だったという。

5時間以上にわたって開かれていた検討会を、時折メモを取りながら見守っていた人がいる。輪島市朝市組合の冨水長毅(とみず・ながたけ)組合長(55)だ。

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焼け跡を前に「思い出せない」

焼け跡を前に「思い出せない」

今年2月上旬。大火に見舞われた輪島市河井町の「朝市通り」を、冨水長毅・輪島朝市組合長と歩いた。がれきと煤のにおいが残る約300メートルの道を、時折、言葉に詰まりながらかつての朝市の姿を思い出とともに語ってくれた。

輪島市災害対策本部によると、地震によって朝市通りを含む一帯は約240棟、およそ4万9000平方メートルが焼け、家屋の倒壊や火災により、16人が命を落とした。冨水さんによると、朝市関係者も3人含まれていた。

「朝市御休憩処」と書かれた石碑が残る小さな一角に来た。「漁火(いさりび)コーナー」だ。

朝市で買った食材を焼いたり食べたりできる「漁火(撮影当時は「炭火」)コーナー」=2016年5月、HAB北陸朝日放送

朝市組合の事務所があった場所。大人の背丈より少し高い、茶色く焼け焦げた長方形の物体の前で足を止める。

「自動販売機…。(昨年)11月に新しく入れたばかりだったんです」 「軒口があって、2畳ほどの休憩スペースがあって。お客さんが来たら話ができたり、軽食を食べてもらったり。その奥に、10畳ないくらいの事務所を構えていました」 トタンのような屋根やがれきが積み重なった場所を見ながら、かみしめるように話した。

さらに歩く。「ここは…なんだっけ」
歩みが止まった。火災でひしゃげた鉄骨と散らばるがれき以外、何も残っていない場所を数秒見て、ため息をつく。

「毎日、365日歩いていた通りなのに。ちょっといま、分からなくなっちゃっています」
跡形もなくなった風景を前にして立ちすくむ冨水さんに、問いかける言葉は浮かばなかった。

さらに東方向へ進むと、朝市通りでひときわ目を引く欧風の白い建物が見えてきた。かつて、漆器店の社長がコレクションや漆器を展示していた個人所有の美術館(その後閉鎖)だったという。 次のページは 大手ブライダル企業を辞め、露店の世界へ

大手ブライダル企業を辞め、露店の世界へ

海産加工物を取り扱う「冨水商店」の3代目だ。

朝市で露店に立つようになってから15年たつが、もとは金沢市や富山市で大手のブライダル企業で貸衣装の仕事をしていたサラリーマンだった。

3人兄弟の長男で「いつかは(商店を)継いでほしい」と祖父母に言われていた。節目の40歳、職場からも快く応援してもらえたこともあり、退職を決意。ふるさとに戻り、妻・和代さんと店を引き継いだ。

外から戻ってくると、改めて輪島の海産物の良さに気づいた。2代目だった母・冨美子さんは高齢なこともあり、取り扱いの9割近くが仕入れた乾物だった。初代店主の祖母は行商で、自家製のいしるやぬか漬けといった発酵食品を作るのが得意だった。

祖母の味をもう一度。
仕込み用の樽を仕入れて、数年かけて自家製品を「復活」。取り扱う海産物も、輪島のものにこだわり、半分を地産に切り替えた。販路拡大、新規開拓にも力を入れた。小売りが中心だったスタイルから、お土産店や道の駅にも売り込みに出かけたり、大きな問屋から珍味を安く仕入れたりした。

サラリーマン時代と比べ、「自分の努力がストレートにそのまま跳ね返ってくる」露店経営は毎日が刺激的だった。商売敵と言えども、店主同士が助け合う雰囲気も好きだった。「うちにないものを聞かれたら○○さんのお店に売っていますよ、とお客さんに教えたり、うちで買ったものも一緒に入れて配送しますよ、と言ってもらったり」

19歳まで輪島で育った冨水さんにとって、祖母、母が露店をしていた輪島朝市は小さいころから「庭のように」過ごしていた場所だった。学校から戻ると、母を手伝って露店のテントを片づけながら、同級生とかくれんぼをした。「おふくろがいない時は、ほかのお母さんたちが『これ、食べていきなさい』とか、『母ちゃん戻るまでここにおりなさい』とか。お母さんがたくさんいた感じでしたね」と目を細めた。

そんな冨水さんが朝市組合の選挙で選ばれて組合長になったのはコロナ禍の2020年暮れだった。当時、朝市は「危機」に面していた。

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HACCAPで朝市の店主ら危機に

HACCAPで朝市の店主ら危機に

翌2021年に食品衛生法改正の規制強化を控え、国際的な衛生管理の手法「HACCAP(ハサップ)」が取り入れられることが決まっていた。

朝市では、客が買った鮮魚を店主がその場でさばいて見せることをウリにしていた店も多かったが、ハサップによってそうした「目玉行為」は原則禁止になる。水道や電気といった施設の整備などが求められたが、資金面の理由から二の足を踏む店主も少なくなかったという。

「鮮魚を売っていた皆さんに向けては、(ハサップによって)今後は販売できないんじゃないか、という説明があったというのを覚えている。朝市の目玉でもあったし、行政とも話し合いやお願いを続けて、販売できる方法を模索していました」と冨水さんは振り返る。

組合員たちで考え出したのが「共同作業場」だ。提携した露店で鮮魚を買うと、店主らがこの場所に持ち込み、3枚おろしや半身にしてくれる。その場でお造りにして刺身を食べられるコーナーも作った。

ハサップの困難を乗り越え、コロナも落ち着いた昨年。冨水さんが次なる課題として取り組みたかったのが、「組合員の年齢層の高さ」と「観光客へのテコ入れ」だった。

輪島市観光協会によると、2015年に年間80万人を超えていた朝市への観光客数は、2023年には4分の1の20.3万人に減少。同じ市内にある棚田の名所「白米千枚田」の半分以下にとどまる。さらに、現在約190人が加盟する組合員の多くが70代。高齢化が進む一方で、なかなか若い世代が増えないことを解決したいと策を練っていた。

課題山積だったところを、大震災が襲った。

震災から2カ月あまり経った3月23日。

輪島朝市の店主たちは110キロ離れた金沢市の金石(かないわ)港で初めての「出張輪島朝市」を開催した。約30店舗が並び、雨の中、約1万人以上が訪れ、大盛況だった。5月4日に再び金沢・金石港で開かれる。その後も石川県内の小松市や白山市、福井県でも開催が決まっている。

4月にあった若手店主らの復興に向けた検討会に参加した冨水さんはこう話す。 「復興といっても、単に元に戻すというのではなくて、やっぱり、次の(若い世代の)方が続けていきたいと思ってもらえるようなものにしたい。検討会で若い店主たちの意見を聞きながらとても心強かった。(震災で)大変なことになってしまったというのはありますけど、逆にピンチをチャンスに変えて、朝市を生まれ変わらせたい」 「我々だけでは復興できない。魚が取れる漁港、宿泊できる和倉温泉、朝市を受け入れてくれる商店街があってこその輪島朝市。そして、輪島で必ず復活します。僕が朝市組合長でいる限り、それは全くぶれていないです」

私はこれまで、十数人の輪島朝市関係者に取材し、連載を続けてきた。震災から4カ月が経つが、「輪島朝市」の周辺はいまだにほぼ当時の姿のまま、がれきが残り、再建までの見通しはたっていない。市や朝市関係者によると、具体的な方向性としては未定なものの、今回の大火によって全焼したエリアは、段階的にがれきを撤去したあと、いったん更地になる可能性が高いという。

それでも、きっといつの日かこの土地で「朝市」は復活するだろう。これまで重ねてきた取材者へのインタビューで、そう思わずにはいられないほど、「輪島朝市」を語る人々は強かった。

(取材、撮影:今村優莉)

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