前衛芸術の旗手で、海外でも高く評価される美術家の瑛九(えいきゅう)(1911~60年)。戦前から戦後に活躍し、埼玉県浦和市(現さいたま市浦和区)で生涯を閉じた。そのアトリエは、守り続けた妻の都さんが6年前に亡くなり、有志の保存活動もむなしく1月に解体。「このままでは、若手芸術家が集ったアトリエが忘れられる。岡本太郎に匹敵する瑛九の魅力をもっと広めたい」。有志が団体を設立し、今秋に展覧会を企画する。(出田阿生)

解体された瑛九のアトリエ兼住宅=2023年11月、さいたま市で

瑛九 本名・杉田秀夫。美術批評、写真、版画、油絵など多彩な分野で活躍した前衛芸術家。宮崎市の眼科医の次男に生まれ、37歳で都さんと結婚。40歳でデモクラート美術家協会を結成し、翌年浦和に活動拠点を移す。作品は東京国立近代美術館などに収蔵されている。

◆池田満寿夫さんも常連

都夫人(左)と瑛九=浦和市(現さいたま市)のアトリエで(1952年頃、玉井瑞夫さん撮影)

 快活な笑い声が聞こえてきそうな写真がある。写真家の玉井瑞夫さん(故人)がアトリエで撮影したもので、右側が瑛九、左側が妻の都さんだ。玉井さんの妻、早史(はやみ)さん(78)=東京都多摩市=は「お宅に行くと都さんがお手製の漬物でもてなしてくれた。親のように私たちを見守ってくれて…」と懐かしむ。  瑛九は絵画、版画、写真などさまざまな芸術活動を展開した。国際人を目指し人工言語「エスペラント」を学ぶなど、常に新しい境地に挑戦した。作品は多彩、それゆえに分かりやすい特徴がなく、48歳で早世したこともあって「知る人ぞ知る」存在となっている。  業績を世に広めたいと、都さんは奮闘した。没後もアトリエを手放さず美術関係者と交流を続け、40年以上住み続けた。2000年、都さんにインタビューをした美術家で明星大教授の渋谷和良さん(65)=さいたま市緑区=は「瑛九のことを知らせたいという思いの強さに胸打たれた」という。都さんが18年に亡くなった後、遺志を継ごうと動き始める。  取り組んだのが、アトリエの調査。「瑛九を慕い、芸術を志す若者が連日集まり激論を交わした場所なので、記憶を語り継げる」と考えた。現代美術家の河原温さん(故人)や写真家の細江英公さんら、後に著名になった人は少なくない。版画家で芥川賞作家の池田満寿夫さん(故人)は常連で、版画を勧めたのも瑛九だった。

◆「反権力の精神、今こそもっと知られるべき」

作品を置く棚がつくられたアトリエ内部=2023年11月

 ところが昨夏、土地売却に伴う取り壊し計画が耳に飛び込んできた。何とか残せないか―。渋谷さんは、さいたま国際芸術祭のキュレーター松永康さん(66)や地元の画廊カフェ経営者野口敬さん(66)らと動いた。  不動産業者の許可を取り市民向けのアトリエ見学会やシンポジウムを開催。だが結局、高額な土地は買い取れずじまいに。「たとえ建物は消えても、できることはある」。そう考えた渋谷さんらは「瑛九アトリエを生かす会」を設立した。  活動の意義について、会のメンバーで美術史家の中村茉貴さん(39)は「瑛九は既存の美術界の権威に抵抗する運動を提唱した人物でもある。労働者や主婦も巻き込んで活動した民主主義と反権力の精神は、今こそもっと知られるべきだと感じる」と語る。

自作の題材としてアトリエ内部を撮影する美術家の鈴木のぞみさん=2023年11月

 会は調査を続ける。メンバーが市内で聞き取りをすると「都さんから瑛九の作品を譲り受けた」と話す人が複数現れ、「何かに役立てて」と手持ちの作品を貸し出す人も出てきた。秋に市内で行う展覧会では、アーティストによる、アトリエの写真や建材などを活用した作品を展示予定だ。 

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