いわゆる袴田事件で、半世紀にわたり死刑囚として生きてきた袴田巌さんに、無罪判決が下った。ABEMA的ニュースショーでは、58年間、巌さんとともに闘った姉のひで子さんに思いを聞いた。
無罪判決後、姉のひで子さん(91)は、「裁判長の『主文、被告人は無罪』が神々しく聞こえた。感激やらうれしいやらで、涙が止まらなかった」と語る。
袴田巌さん(88)は、1959年にプロボクサーとしてデビューしたが、1966年に当時勤務していたみそ製造会社の専務宅が全焼し、一家4人の遺体が見つかったことから、強盗殺人放火事件の容疑者として逮捕。その後、死刑判決が出た。ひで子さんは「そうじゃないと言いたいが言えなかった」と振り返る。「元々明るい人間だが、巌の事件があってからは笑いもしない。世間とかけ離れて生活していた」。しかし1980年に最高裁で死刑が確定する。
当時について、ひで子さんは「その時にいる人、全部敵に見えた」と説明する。孤独な闘いで、酒に溺れたこともあった。「巌を助けるどころじゃなく、自分が先にまいっちゃう。それから一滴も飲まない」。
2014年に再審が始まり、ようやく48年ぶりに釈放された。それでも検察側は、のちにねつ造と認定される証拠を盾に、上告を続ける。ひで子さんは「検察官は転勤して、担当者も変わる。その度に好きにやらせとけばいい」と語る。全国で検察の控訴断念を求める動きがあり、オンライン署名は5万人を超えた。また10月4日には、弁護団は5点の衣類の「血痕の赤み」について、新たに行った科学的な鑑定結果を公開した。しかし再審裁判では、あえてこの鑑定結果を提示しなかった。
袴田事件弁護団の小川秀世弁護士は「何よりも公判では迅速な結論を」との思いから、「新しい証拠は基本的に出さなかった。検察官に対して控訴を断念させる、そして我々も強力な武器があると、検察に訴えたい」と述べた。
ひで子さんは、無罪判決後に「巌の事件だから、巌にわかってもらわないと」と、状況説明に前向きな姿勢を示していた。巌さんは拘禁症によって、いまなお心を閉ざしている。しかし、静岡での会見では、「無罪勝利という待ちきれない言葉でありました。無罪勝利が完全に実りました」と口にした。
事件直後の面会の様子を、ひで子さんが語る。「初めは相づちを打っているうちに、30分ほど経ってしまう。私たちの方が励まされていたが、死刑が確定してから、ガラッと変わっておとなしくなった。死刑の恐ろしさを実感して、精神に異常をきたしてきたようだ」。死刑確定後は「みんな敵に見えた。弁護士や支援者も敵に見えた」というが、諦めようとしたことはなかった。「無実であると信じていて、巌自身も頑張っていた」。なぜここまで、弟を信じ続けられたのか。「人間を4人も殺した人が、普通でいられると思うか。3日後に帰った時に、にこやかに話していた。それで『関係ない』と信用した」。
巌さんの支援クラブで広報を担当している白井孝明さんは、「勉強しながら」ひで子さんをサポートしている。「カバン持ち兼ボディーガードだが、ひで子さんはカバンを預けず、さっさと前に行く。こちらまでシャンとする。変な言い方だが、楽しみながら付いている。いつも後を付けていくのが精いっぱいだ」と語る。ひで子さんは「刑務所に行くのに足腰が弱ってはいけないため、朝起きて30分体操をしている」と、健康の理由を明かす。
今後については「皆さんに助けていただいた。巌だけ助かればいいとは思っていない。冤罪で苦しんでいる方も多い。命がある限りは、頑張っていきたい」と意気込む。その上で、警察や検察に向けては、「初動捜査をしっかりやってほしい」と訴えた。
(『ABEMA的ニュースショー』より)
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