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能登半島を襲った豪雨から2週間が経つ。

年始に地震が起き、ようやく復興が進み始めたと思った矢先での9月の豪雨。
無慈悲な「二重の被災」は、石川県輪島市で36年間地元住民らに愛され、二人三脚で食堂を営んできた夫婦の心をも折った。「もう限界です」と話す夫婦の思いを取材した。
(テレビ朝日社会部 西平大毅)

■「濁流が能登を襲った」 

地面に打ち付けるような猛烈な雨は、すぐに鉄砲水へと変わった。茶色く濁った水は流木を巻き込みながら濁流へと変わり、間もなく多くの奥能登の河川が氾濫した。

輪島市では、市内を流れる塚田川が氾濫し、久手川町では住宅4棟が流された。川に沿うように並んでいた住宅は根こそぎ押し流され、現場では住宅の基礎部分だけが残り、多くの流木や土砂がそのままになっている。

震災と豪雨の2つの災害。この容赦ない現実を受け入れられていない住民も多い。

輪島市中段町で食堂「美乃幸」を営む今井幹夫さん(73)と妻の文子さん(61)もそうだ。

近くを流れる川が氾濫し、濁流が店に押し寄せた。

客席のほか、炊飯器、皿、椀などの調理器具は土砂に浸かった。店内では2週間が経った今でも土の匂いが残る。店の玄関に掲げられていた緑色の暖簾にも泥が付いた。店の看板は外され、がれきの中に置かれていた、

「もう一回は無理。やり直す元気がない」

幹夫さんはそう声を振り絞りながら店の片づけ作業を行っていた。

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■手作りにこだわったメニュー 「満足して帰ってもらいたい」36年の営み 

■手作りにこだわったメニュー 「満足して帰ってもらいたい」36年の営み 

「ここで定食屋を開こう」。近くに娯楽施設が建設されることを聞いた幹夫さんは「絶対繁盛する」と確信し、1988年に20席ほどの食堂を開店した。

「オムレツ定食」「焼き魚定食」「ハンバーグ定食」…決して飾らないが、手作りにこだわった昔ながらのメニューが並ぶ。

中でも人気なのは、「チキンカツ定食」と「トンカツ定食」。サクサクな衣のついた肉厚なカツ。そして茶碗に大盛に盛られた白米はお腹を空かせた常連客の胃袋を満たしてきた。

1000円前後のボリューム満点の食事は、大きな値上げもしてこなかった。「満足して帰ってもらいたい」という一心で2人は厨房に立ってきた。

8年前に隣の喫茶店の火事が延焼し、店の屋根が焼けるも「またやり直す」と3カ月かけて修繕し営業を再開した。

その後は幹夫さんの持病の首の痛みが悪化し、フライパンが持てなくなるなどしたが、仕事に打ち込んでいたら不思議と症状は緩和した。「仕事が一番のリハビリだった」と話す。忙しい日々だったが「もう少しやれる」。そう感じていた。

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■大規模半壊した自宅 店で寝泊まりする中届いた常連の声「おいしいごはんが食べたい」

■大規模半壊した自宅 店で寝泊まりする中届いた常連の声「おいしいごはんが食べたい」

そんな中、今年1月に震度7の地震が2人を襲った。

同じく輪島市内にある自宅は大きく傾き大規模半壊の認定を受けた。「とても住める状態じゃない」。そう思った2人は何とか震災による損壊を免れた「美乃幸」で仮の生活を始め、3畳ほどの座敷に布団を敷き寝泊りした。

「営業は考えられない。まずは自宅を何とかしないと」と片づけ作業に追われたが、自分たちでできることをやっても住むことは難しかった。

また営業しようにも食材の仕入れ先のメドも立たない日々が続いていた。しかし、慣れ親しんだ味を知る常連客から届いたのは「食べるところがない」「はよ開けて」「おいしいごはんが食べたい」という声だった。

そんな常連客らの声に押され、6月から営業を再開した。急遽だったが、いつもの食堂が戻ってきた。営業終了後、客席として使用していた座敷に布団を敷いて寝た。体はしんどかったが、「復興にきっと近づいている」とやりがいを感じていた。店は常連客に加え、復興作業に携わる業者も多く来店しにぎわっていた。

「自分たちが頑張らないと」。そう思っていた矢先、もう一つの災害に遭ってしまった。

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■店の再開から3カ月あまり 「2人の心を根本からくじいた豪雨」

■店の再開から3カ月あまり 「2人の心を根本からくじいた豪雨」

9月21日、いつもと同じように午前6時半に起き、2人は黙々と仕込み作業に追われていた。雨が降る音がし、外を見た。店の玄関の手前まで水に浸かっていたが、「いつものことだから大丈夫だろう」と思い、作業を続けた。

しかし、状況は急激に悪化していく。午前9時ごろ、外を見ると、水は店の窓枠にまで迫っていた。

とっさに窓を開けると茶色く濁った濁流が一気に店内へ入り込んできた。「もうダメかもしれない」。幹夫さんはそう悟ったという。

「寒い…」。文子さんの胸のあたりにまで水は一気に迫った。少しでも高いところに逃れようと、椅子の上に必死で立ち続けた。幹夫さんは腰のあたりまで泥水に浸かった。

「はやく水が引いてくれ…」。そう願い続けた。2時間ほどで水は徐々に引いていったが、待つ時間はとても長く感じたという。

「あと少しだけでも水が入り込んでいたら死んでいたと思う」

幹夫さんはそう振り返った。

豪雨から2日間、幹夫さんと文子さんは車中泊をした。しかし、疲労が限界に達し、その後は避難所で生活を続けている。

店には常連客のボランティアらが店内の泥水を掻き出す作業や片づけ、清掃などを手伝いに来てくれた。「もう一度食べたい」「復活してほしい」そう声をかけられたという。 しかし、幹夫さんは「もう限界。地震で家がなくなり、店を改装して住むつもりだったが、それもできなくなってしまった」と胸の内を明かした。

閉店するという夫婦の断腸の思いはすぐに常連客らに伝わった。「さみしいよ」と惜しむ声が2人に寄せられているという。

うっすらと目に涙を受かべながら話した。

2人とも感情は抑えているように見えたが、理不尽、悔しさ、悲しさをにじませていた。

「調理器具も皿も店も泥まみれになって何もかも使えなくなってしまった。やっぱり36年間続けてきたのをやめるのはさみしい。本当に洪水がなければ…頑張ろうとしていた時にどうしてこんなことに…」と2人は話す。

県は国に対し「地震からの復興途中で発生した水害は極めて異例で、被害が拡大する要因となった」とし、「複合災害」となった現状を訴える。新しく発足した新政権がしっかりと現状に向き合い、三重苦、四重苦以上の苦しみとならないよう有効な支援や対策を打ち出せるか問われている。

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