◆食べ物が無い中、老夫婦の優しさに「男泣き」
遭難記には「朝鮮人四、五十名襲来」のデマが飛び交ったことも記されていた
焦熱地獄を何とかやり過ごした録三郎一家だが、真夜中になって飛び交うデマにさいなまれる。いかなる者の宣伝か(略)朝鮮人四、五十名襲来するとの事、一言伝わるや、恐れおののき安き心なし。
結局、朝まで何事も起きなかった。翌朝も食べ物がなく、幼子に「食し得べくばわが肉片を割きても与えん」とまで思い詰める。そんな時、自宅近くで親切に触れる。半焼けの商店より生麩(なまふ)を三本買い求め四名にて水を飲み、麩を食し一時の飢えを凌(しの)ぎ、その時同じ罹災(りさい)者の中の老人夫婦に芋粥(いもがゆ)を一椀(わん)ずつ馳走(ちそう)になった。小児等の喜ぶ様を見て有り難くて男泣きに泣いた。
録三郎は友人家族らと兵隊山(南区三春台)に避難することを決め、午後2時ごろまでかかって掘っ立て小屋を建てた。横浜渠船(きょせん)の倉庫(中区新港)に食料があると聞き、向かった。馬車道通りを左に折れ電車通りをまっしぐらに行った。電車(市電)は焼けて鉄骨ばかり。その中には多数の人が白骨と化して横たわり、道路面には至る所累々と死体が重なり合っている。大江橋(中区)を渡り、桜木町(駅)構内へ来た。(略)数百両の貨車が焼けて車両を残すのみなり。この辺にも焼死体は至る所に散乱す。
火災の猛威にさらされ、焼失した桜木町駅。焼けた車両内には多くの遺体があった=横浜市中央図書館所蔵
「外米三斗(約54リットル)」を得て帰ると、友人がしょうゆを調達していて、温かいにぎり飯にありついた。やがて夜になると、再びデマが飛び交う。その夜は自警だ。ここかしこにては銃声が劇(はげ)しく、(略)朝鮮人の追撃(の噂=うわさ)で一夜まんじりともせず三日の朝となった。
この日、録三郎は市内を縦断して歩き、惨状を目にする。黒焦げとなった死体が(略)いずこに行ってもゴロゴロ転がっている。死屍(しし)累々残虐の極みだ。(略)防波堤はほとんど海中に陥没し(略)数える事のできぬ程の溺死体が漂流している。(略)火に追われて来て苦しさのあまり飛び込んだが助かるすべもなく流されて行ったのである。
震災で傾き、内部が焼けた繁華街・伊勢佐木町の越前屋呉服店=横浜市中央図書館所蔵
歓楽街・伊勢佐木町通りの映画館や越前屋など百貨店も軒並み倒壊。真金町、永楽町の遊郭は「逃げ遅れた芸娼妓(げいしょうぎ)達は折り重なって焼死している。圧死者もかなりあったらしい」。ホテルも壊滅状態だった。「オリエンタルホテル」は地中に陥没し、二階の床が地面の外に一部現れているのみだ。山手町にある「テンプルホテル」や「チェリマウント(桜山)ホテル」は崖の上から真っ逆さまに落ちてしまった。また「ブラフホテル」も本牧町の真上に墜落した。
こうして苦労して歩くのも食料調達のためだった。しかし「東奔西走したがそれは徒労であった」。小屋に戻った録三郎が夜、自警に入ると、またしても噂話が飛び交っていた。話題は(略)朝鮮人騒ぎの事ばかりだ。あそこで何人殺されたの、ここで婦女が犯されたのと、至る所朝鮮人と見ればすぐさま一撃を加え、河中に投ずるのみだ。(略)往来する時は皆一様に焼け残り鉄棒、その他思い思いの得物を携えて通行した。日本人といえども朝鮮人と間違えられて撲殺されし者数知れず。あまつさえ河中に投ぜられプクリプクリと浮かんでいる。
翌4日、録三郎を残し、一家は小田原の親戚を頼り避難することにした。 (「朝鮮人襲来」などの噂話はデマであり、その拡大は虐殺を招きました。影響を受けた市民の実態を伝えるため、表記を現代仮名遣いに直して句読点を補うなどしたほかは、原文通り紹介します) ◇ ◇ TOKYO発では昨年、関東大震災100年に合わせ、神保町で被災した青年の手記を紹介する「大震災を見た青年」(8月29〜31日、番外編12月20日)と、日暮里で被災した男性が親戚に書いた手紙を紹介する「下町からの手紙」(12月3、4日)を掲載しました。 ◆文と写真・加古陽治 ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へメールでお願いします。 【関連記事】<関東大震災 横浜からの証言>前編 「一家全滅とまで覚悟」倒壊した家、血まみれの人、激しい炎… 郵便局員が書き残した関東大震災の惨禍 【関連記事】関東大震災のその日、台風が 地震火災あおられ…下町に「炎の烈風」 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。