1945年8月9日、アメリカ軍は2発目の原爆を長崎に投下。およそ7万4000人が命を失った。あの日から79年、長崎出身で、叔父と叔母が被爆者だというシンガーソングライター・さだまさしさん(72)と長崎・原爆の日を考える。
■「原爆投下を恨んでいない」
3歳からバイオリンを習っていたさださん。腕前を上げたいと、中学1年の時一人で上京。その後、叔母が住む千葉県市川市に移り、叔母から被爆した時の話を聞いたという。 大下アナ「叔母さまから、被爆の時のお話を聞こうと思われたきっかけはあったんですか」 さださん
「やっぱり大人になると、あの戦争が何だったのか、原爆が何だったのかをやっぱり自分なりに決着を付けないといけないと思ったんですね。原爆の時の話って、遠慮して子どもの頃は聞かなかったんですけど、大人になったらね、ぶっちゃけ、その時どうだった?っていう、色んなことを教わりましたね、叔母に」
「原爆を落とす前に原爆の観測気球を先に落としてるんですね。先に投下して。黄色いパラシュートで降りたらしいんですよ。叔母は、爆心地から4キロは離れてないですね。3キロちょっとですかね。軍需工場で黄色いパラシュートについて何か落ちてくるのを見てるんですよ。友達に詳しい子がいるから、その子を捜して地下の電気室に駆け込んだ瞬間にドーンと来てるんですね。ですから直接被爆はしてないんです、僕の叔母は。ただ地下室から上がってきた時に、きれいに何もなかったって言ってましたね」
「叔母は恨んでなかったですね。自分が被爆したってことを。『戦争だから仕方がない』っていう言い方をしましたね。戦争なんだから仕方がないんだと。『もしも日本が先に原爆を作っていたら、知らない街の誰かが私と同じ目に遭っている。だから私で良かった』って言い方をしましたよね。叔母はね」
「アメリカ軍による原爆投下を恨んでいない」さださんは叔母のこの言葉が胸に刺さったという。
次のページは
■「広島の日」に長崎から思いを■「広島の日」に長崎から思いを
さださんは「夏 長崎から」と題した野外コンサートを8月6日、広島・原爆の日に開催していた。1987年から20年にわたって無料で続けられた公演。そこには、さださんのある強い思いがあった。 大下アナ「『夏 長崎から』の無料コンサートはどのような思いから始められたんでしょうか?」 さださん
「無料にこだわった理由はですね。500円でも頂戴すると、子どもは留守番なんですよね」 大下アナ
「500円でも?」 さださん
「そう。タダだと何か涼みがてら、(会場の)稲佐山へ上がろうかな。2、3℃違いますから、気温が。そうすると家族で聴きに来てくれるでしょう。家族そろって音楽を聴くっていうのは、僕、一つの平和の象徴だと思ったんですよ。だから家族連れで来られるよう無料にしようというのでスタッフは頭を抱えてましたけどね(笑)」 大下アナ
「2006年まで、まさに20年続けられて?」 さださん
「5歳の子が25歳になりますから。最初から来てくれる子には何か伝わってるだろうっていう確信を持って、20年目にやめましたね。やっぱりいつまでも自分の頑張ることができるわけではないから、一旦は引こうと。それで思いついたらまた歌えればいいじゃないっていう感覚ですよね。それでやめました。長崎のタクシーの運転手さんに『あそこドル箱だったんだよ』と残念がられましたけどね(笑)」
「僕は伝わっていると思いますよ。『戦争反対』『核兵器がどうした』って一言も言っていませんから。僕はずっと伝えたのは『あなたの大切な人の笑顔をこのコンサートの間、5分でいいから思い浮かべて』くれと。そのあなたの大切な人の笑顔を守るために何ができるか考えましょうと、それがこのコンサートに来てくれた意味だから。そのことしか僕言わなかったんですよ。音楽ができる現場を守るというのが一番の大事な仕事だから。俺はその現場を守るんだよと。『平和』だとか『核兵器反対』ということより、8月6日に長崎で歌うことで理解してくれる人は黙っていても分かってくれるという思いですね。これをただの夏フェスとしか見ない人はそれでも良いし。きょうが広島の日の夜なんだってことを感じながら、私は今、長崎にいるんだってことを感じてくれるだけでも十分なんですよ。僕にしてみれば。音楽の力っていうのはそういうものだと思ったんで」
次のページは
■「悪魔は自分の心の中にいる」■「悪魔は自分の心の中にいる」
大下アナ「さださんは1993年に、叔母さまの被爆体験を歌った『広島の空』という歌を発表されましたが、なぜ、歌にしようと思われたんでしょうか」 さださん
「あの当時は、『怒りの広島 祈りの長崎』って言葉があったんですよ。つまり広島は亡くなった方も多いですし、何しろ世界で初めての被爆地ですから、怒りの方が大きかったんですね。ところが長崎の爆心地っていうのは、クリスチャンが多く住んでいた土地だったもんですから、怒りよりも祈ろうと。『もうこんなことが起きませんように』っていう」
「長崎が最後の被爆地であってほしいとは思いますけれども、広島が最初の被爆地であるということは永遠に変わりませんから。だから『広島の空』というのは長崎っ子としては8月6日の広島の日の晩に、広島の空へ向かって歌うことが長崎っ子らしい祈りなのかなというふうに僕は思ったんですよね」 大下アナ
「叔母さまの長崎での体験だけれども、あえて『広島の空』というタイトルをお付けになったと」 さださん
「叔母は17歳で被爆して、50年生きましたけども。いわゆる原爆症で亡くなったんですけども、僕は『夏 長崎から』っていうコンサートを始めた時に、『あなたが歌うのをやめるのか、私が生きるのをやめるのか、どっちが勝つか』なんて言いながらね。毎年楽しみに(コンサート会場の)稲佐山へ上がってくれていましたけどね。そんな叔母の思いがどうしても伝えたかったんですよね」 大下アナ
「(広島の空の)歌詞の中に『武器だけを恨んでも仕方がない』と。『むしろ悪魔を産み出す自分の心を恨むべきだから、どうか繰り返さないで』という歌詞が…」 さださん
「これは全く叔母の言葉です。何度かカセットテープを回しながら、叔母に『これ回しってよかね』と聞いてね。『よかよ。あんたの役に立つんだったら私は何でもしゃべるばい』とか言われて。ずっと回していた中にその言葉がありましたね。武器は、最初はたぶん石を投げていたんだろうけど、それから、もっと飛ぶものを考えてね。それから今度は銃を考えて、爆弾を考えて、原爆を考えて。今度はもっと恐ろしいことを考えるのが人間の頭だから、悪魔は自分の心の中にいるんだっていう言い方をしてましたね。ですから、戒めなければいけないのは、その武器だけではなくて、それを生み出した思いは自分の心の中にあるんだっていうことを認識しなきゃだめだなって思いましたね」
次のページは
■80年目の「夏 長崎から」■80年目の「夏 長崎から」
長崎への原爆投下から9日で79年。被爆者は高齢化し、その体験を直接聞く機会は年々少なくなってきている。さださんは、長崎に生まれたものの責任としてこれからも被爆者の声を伝えていきたいと考えている。 大下アナ「今、被爆者の平均年齢も85〜86歳位になり、直接その体験を聞ける機会がどんどん少なくなっています」 さださん
「そうなんですよね。『長崎の子』という責任を申し上げましたが、被爆者の話をいっぱい聞いてきてるんですよ。他の被爆者の話も。あの時にお父ちゃん駅まで一緒に送って、お父ちゃんは工場出掛けて自分はやることがないから長崎港の岸壁で釣りをしていた時に、パッと光った時に焼夷(しょうい)弾だと思ったんで、水に飛び込んだ。上がってきたら真っ暗だった、怖くてまた潜って。7〜8回潜っているうちにだんだん視界が広がっていって、最初は曇り空だったのに、やがて雲一つない青空に変わった。とかね」 大下アナ
「でもまだ80年しか原爆から経っていないのに、あまりにも忘れられていないかなと思うんですよね。長い歴史で言うと、80年ってついこの間のことなのにとも思って」 さださん
「80年って僕は自分が元気だったらいいですけど、90年目が元気で迎えられるかどうか分からない年になってますから、80年目の来年はやっぱり長崎から何かを伝えようと思います。それはやみくもに『戦争反対』だとか『原・水爆がどうした』ということだけが、愛ではない気がするんですよね。もっと愛のある、歌って手渡しするものですから。散弾銃みたいに1対1万でパーンって撃つものじゃありませんから。何万人いても一人一人に手渡すものだから、手渡せるようなテーマを選んで『夏 長崎から』をやっぱり僕は80年目はやろうと思います。だから、日本中から広島の日に、長崎に集まってもらって、広島の空へ向かって何を歌うのかっていうことがすごく大切だと思うんですよね。音楽のできることはそのぐらいなので、せいぜい、そんなことで自分の思いを伝えようと思います」
※この記事はオンエア未公開分を含みます
(「大下容子ワイド!スクランブル」2024年8月9日放送分より)
・「たくさんの人が苦しい思いしている」原爆体験も被爆者にならず…被爆体験者の声・広島であの日何があったのか…元原爆資料館 館長が語る“原爆の日”の体験・“核の原点”の物語は今何を伝えるのか…映画『オッペンハイマー』ノーラン監督に聞く・「核兵器廃絶」訴える世界一周の航海へ 広島・長崎の被爆者ら「愚直に体験話したい」・“100年に一度”幻の花が咲いた!横浜の中央分離帯にリュウゼツラン鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。