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23歳の特攻隊員が、婚約者に宛てた遺書。
「自分の事は忘れて欲しい」と綴っています。

女性であるあなたに少し言って征(ゆ)き度(た)い。
「あなたの幸せを願う以外に何物もない」
「勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面(しんかつめん)を見出すこと」
「穴澤は現実の世界にはもう存在しない」

こうした特攻隊員たちの遺書が、今、ある問題に直面しています。

“特攻を知らない子供たち”が泣いた

名古屋市内のショッピングモールで開かれた、ある小説家のサイン会。

「作品がすごく良くて、ボロ泣きです」
「中学2年生のときに読んで…精一杯生きようと思いました」
「戦争について調べることが増えました」 小説家の汐見夏衛さん。映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』の原作者です。
特攻隊をテーマにした映画は、若者を中心に異例の大ヒット。観客動員数は350万人を超え、原作の小説も100万部を突破しました。
戦時中の日本にタイムスリップした女子高生と、出撃を控えた特攻隊員とのはかない恋が描かれ、「とにかく泣ける」とSNSで話題になりました。

元々は高校の国語教師だったという汐見さん。なぜ、特攻隊をテーマにした作品を執筆しようと考えたのでしょうか。

小説家 汐見夏衛さん
「“特攻”という言葉を授業で出したときに、知らない生徒もいました。そのままどんどん時間が経って、歴史の中だけの出来事になっていったら、本当にこの先どうなってしまうのかなという不安があったので」

太平洋戦争末期、日本は爆弾を積んだ航空機などで敵の艦船に突っ込む「特攻」を開始。搭乗員の多くは、20歳前後の若者でした。

鹿児島出身の汐見さんは、中学生のころに訪れた戦争資料館で衝撃を受けたといいます。

小説家 汐見夏衛さん
「知覧に初めて行ったとき、特攻隊員の遺書が一番衝撃的でした。『国のため』『家族のため』『大事な人のため』という言葉が当たり前のように出てきて…。小説を書くときも、遺書を出すシーンは必ず描きたいと思っていました」

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■「日本一のお母さん」へ― 佐藤新平 少尉

■特攻隊員“最後の声” 届け続けるために

実は今、遺書などを展示する戦争資料館が閉館に追い込まれています。
8月、大分市の「予科練資料館」が閉館。ここ数年では、2022年に北九州市、2017年に岡山市の資料館が閉館となっています。遺品や遺書などの維持や管理が難しいことに加え、後継者がいないことも背景のひとつだといいます。

陸軍の特攻隊基地「知覧飛行場」があった、鹿児島県の南九州市。
市が運営する「知覧特攻平和会館」では特攻隊員の遺書を後世に残すため、ある取り組みが始まっています。

知覧特攻平和会館 川崎弘一郎さん
「(実際の遺書は)紙が劣化していきますので、レプリカを作成して順次入れ替える形をとっています」

紙の質感やインクのにじみ、さらに傷や汚れまで忠実に再現したレプリカを作成し、実際の遺書と入れ替えているといいます。

この平和会館には、特攻隊員1036人分の遺影と、遺品や遺書など、およそ6000点が展示されています。

■「日本一のお母さん」へ― 佐藤新平 少尉

岩手県出身、母親へあてた遺書です。

思えば幼いころから随分と心配ばかしおかけしましたね。
腕白(わんぱく)をしたり、又 何時(いつ)も不平ばかし言ったり。
眼を閉じると子供のころのことが、不思議なくらいありありと頭に浮かんで参ります。
家を出発するとき、台所でお母さんが涙を流されたのが、東京にいる間中、頭に焼きついて、あの頃どんなに帰りたかった事かしれませんでした。
ゆっくりお母さんに親孝行をする機会のなかった事だけ残念です。
軍隊に入ってお母さんにお会いしたのは三度ですね。
態々(わざわざ)長い旅をリュックサックを背負って会いに来てくださったお母さんを見、何か言うと涙が出そうで、遂(つい)、わざわざ来なくてもよかったのに等と口では反対の事をいってしまったりして申し訳ありませんでした。
日本一のお母さんをもった新平は常に幸福でした。
日本一の幸福者、新平 最後の親孝行に、いつもの笑顔で元気で出発いたします。
※一部抜粋 1945年4月16日、出撃、戦死。23歳。
遺書を受け取った母親は泣き崩れたといいます。

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■「会いたい。話したい」穴澤利夫 大尉

■「会いたい。話したい」穴澤利夫 大尉

福島県出身、婚約者の智恵子さんに、「自分の事は忘れてくれ」と遺書を残しています。

軍人だということで互いの両親から結婚を反対されていた2人。それでも2人の意思は固く、なんとか婚約を許されますが、その後、「出撃命令」が下ります。 二人で力を合わせて努めて来たが、終(つい)に実を結ばずに終わった。
婚約をしてあった男性として、散って行く男子として、女性であるあなたに少し言って征(ゆ)き度(た)い。
「あなたの幸せを願う以外に何物もない」
「徒(いたずら)に過去の小義に拘(こだわ)る勿(なか)れ」
「あなたは過去に生きるのではない」
「勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと」
「あなたは、今後の一時一時の現実の中に生きるのだ。穴澤は現実の世界にはもう存在しない」

今更何を言ふのかと自分でも考へるが、ちょっぴり慾(よく)を言って見たい。
●読み度(た)い本
「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」
●観たい画
ラファエル「聖母子像」 芳崖「悲母観音」

智恵子 会ひ度(た)い、話し度(た)い、無性に。

今後は明るく朗らかに。自分も負けずに朗らかに笑って征(ゆ)く。
※一部抜粋

1945年4月12日出撃、戦死。23歳。

智恵子さんからもらったマフラーをまいて出撃した穴澤大尉。
智恵子さんは、穴澤さんの煙草の吸い殻を、生涯、持ち続けていたそうです。

愛するものを守れると信じ、散っていった若者たち。
特攻作戦で亡くなった隊員は6371名にのぼります。

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■「特攻の母」ひ孫が思いをつなぐ

■「特攻の母」ひ孫が思いをつなぐ

『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』に登場した食堂のおかみ、ツルさん。
このツルさんにはモデルとなった人物がいます。
「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメさんです。特攻隊員たちをわが子のように可愛がったというトメさん。時には検閲を恐れた特攻隊員から遺書を預かり、家族や恋人に届けていました。

そのトメさんの食堂は、現在、特攻隊員の遺書などを展示する資料館となっています。

館長を務めるのはトメさんのひ孫にあたる、鳥濱拳大(けんた)さんです。 鳥濱拳大さん
「80年も経つと手紙が黄色くなってしまったり、(建物が)雨漏りしたり…。維持には結構お金がかかります」 拳大さんは、一時閉館も考えたといいますが、現在はクラウドファンディングで寄付を集めるなどして存続の道を模索。遺書や資料館を残していくことが、“戦争風化の歯止め”になると考えています。 鳥濱拳大さん
「遺族の方々が『ひいおじいちゃんの遺品を置く場所がない』と言って寄付という形で入れてくださることも多いんです。(特攻隊員が)手紙に書いた思い、彼がどういった思いでこれを書いたのかを残していくのが、私の役割だと思っています」

戦後、トメさんは特攻隊員たちの言葉や、彼らへの思いを語っています。

鳥濱 トメさん
「自分なんかの年を全部あげるから、おばさん長生きをしてくださいねと。時には蛍になって帰ってくるからという人もいましたよ。敵機が何機来ても、おばさんのうちだけは守ってあげるからと。偉かったですよ」
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