米国で日本人移民を全面的に禁止した排日移民法(1924年移民法)は、1924年5月26日に成立、7月1日に施行された。日本を含む各国からの移民急増で仕事の争奪や人種的あつれきが起きていたが、日本人移民の制限を主眼としていたため「排日移民法」と呼ばれた。

日系米国人の歴史

1841年 太平洋で遭難し、米捕鯨船に救助されたジョン・万次郎が米入国

1853年 米国のペリー提督が率いる東インド艦隊が来航

1854年 日米和親条約締結

1868年 米国人バン・リードのあっせんで、日本人153人がハワイに移民

1900年代 米国で黄禍論が席巻

1908年 「日米紳士協約」で、日本人労働者の米国への移民が事実上停止される

1913年 カリフォルニア州とアリゾナ州で、実質的に日本人移民の土地購入、所有を禁じる「外国土地法」が成立

1924年 「排日移民法」(1924年移民法)が成立。日本からの移民が全て禁止される

1941年 日本がハワイ・真珠湾を攻撃。FBIが日系人指導者を拘束、逮捕

1942年 ルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名。日系人の強制収容開始

1944〜1946年 全米10カ所の強制収容所が閉鎖される

1970年代 日系人コミュニティーで、強制収容への謝罪を連邦政府に求める「リドレス運動」始まる

1988年 レーガン大統領が強制収容補償法(市民の自由法)に署名

出所:全米日系人博物館

全米日系人博物館によると、ハワイを含む米国への日本人移民は1868(明治元)年以降、増え続け、95年には米本土で暮らす日本人は約6000人に達した。日露戦争(1904~05年)のころには、東アジアの強国として台頭した日本への警戒感が強まり、西部のカリフォルニア、アリゾナ両州などでは、実質的に日系人の土地所有を禁じる「外国人土地法」が成立した。

1920 年代に入って排日運動が激しくなる中、排日移民法は連邦議会で可決され、クーリッジ大統領(当時)が署名して成立した。日米協調を訴えていた実業家の渋沢栄一、国際連盟事務局次長を務めた新渡戸稲造らを大きく落胆させるとともに、日本国内で反米感情が高まった。

41年12月8日(現地時間7日)に旧日本海軍がハワイ・真珠湾を攻撃して日米が開戦。翌42年にルーズベルト大統領(当時)が大統領令9066号に署名し、「敵性外国人」とされた日系人の強制収容が始まった。米国内に10カ所の強制収容所が造られ、全米日系人博物館によると、約12万5000人が収容された。

70年代には、強制収容を巡って国家賠償を求める「リドレス運動」が日系人コミュニティーで始まった。連邦政府の謝罪、賠償を定めた「市民の自由法」は88年、レーガン大統領(当時)が署名して成立した。

米国勢調査局によると、日系および他人種の両方をルーツに持つと自認する人(combination)を含む日系米国人の推定人口は、2011年から22年の間に24%増加した。日系のルーツのみを自認する人々は10年の国勢調査では76万6,079人で、20年調査では74 万1544人に減少した。他人種との融合が進んでいることがうかがえる。

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