◆「子供らは蕾のままで散りゆけり」
教諭時代の美津子さん=上野和子さん提供
「歳月がたち、対馬丸を知らない人も多くなったが、悲劇を埋もれさせてはいけない」と和子さん。書籍名は「蕾(つぼみ)のままに散りゆけり」(悠人書院、税込み1980円)。2011年に90歳で亡くなった母、新崎(あらさき、旧姓・宮城)美津子さんの短歌「子供らは蕾のままに散りゆけり嗚呼(ああ)満開の桜に思う」から取った。 事件当時、引率教諭だった美津子さんは那覇市の天妃(てんぴ)国民学校に勤める24歳。学童らと疎開船の対馬丸に乗り、被害に遭った。美津子さんは海に投げ出されて4日間漂流した後に救助されたが、乗船した800人を超す学童の大半が亡くなった。15歳だった妹、祥子(よしこ)さんも犠牲になった。◆4日間の漂流、細っていった助け求める声
美津子さんがひそかに対馬丸事件を書き留めていたノート
本には美津子さんがひそかにつづっていた漂流の4日間と、当時の思いを込めた短歌が紹介されている。 《さんざめく子等を乗せたる対馬丸我が目の前で魚雷命中す》 《いつまでも消ゆることなき少女らの声「宮城先生…」と細りゆく声》 《親を呼び師を呼び続くるいとし子の花かんばせの命の惜しき》 《妹よ堅く握れる手が離れ学業半ばの汝(なんじ)も沈みき》 学童らといかだにつかまり、荒波にもまれた。昼間はギラギラした太陽、夜は凍えるような寒さ。サメの群れと遭遇し、睡魔や幻覚が襲う。教え子や妹が海中に消えていった。◆続いた自責の念、86歳で体験を語り始める
母の思いをつづった本を手に語る上野和子さん=栃木県栃木市で
対馬丸事件の経験を長年、家族にも詳しく語らなかった美津子さん。86歳だった06年11月、地元公民館での戦争体験者の講演会で初めて重い口を開いた。地元の教育関係者から強い勧めがあったという。 講演会に付き添っていた和子さんは「初めて聞く話にぼうぜん自失となった」。多くの教え子を助けることができずに生き残った自責の念に、苦しみ続けてきたことを思い知った。 その後、美津子さんは高齢を押して3回の講演を開いた。和子さんも公益財団法人対馬丸記念会の認定語り部となり、母の話を伝え続ける。胸に刻む思いは、母の歌。 《風化させじ短き命の尊さを語りべとなり世にし伝えん》対馬丸事件 国民学校の学童や教諭、一般疎開者らを乗せた貨物船対馬丸(6754トン)が1944年8月21日夕、長崎に向けて那覇港を出航。翌22日午後10時すぎ、鹿児島県のトカラ列島悪石島付近で、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没した。対馬丸記念館(那覇市)によると、推計で1788人が乗船し、学童784人を含む1484人が犠牲になった。
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