すでに伐採された1本の樹木の行く末に注目が集まっている。昨夏、明治学院大白金キャンパス(東京都港区)の正門前にあったイチョウを巡り、区は「倒木の危険」「公衆の安全」を理由に撤去を決めた。今は切り株だけが残されたが、新たに芽吹いたひこばえが根元から伸びている。区の決定を「早計だった」と疑う専門家もおり、教職員や区民の有志が「歴史的意義のあるイチョウ。経緯の検証が必要では」と訴えている。(西田直晃)

◆「伐らない約束で無償で寄付した」

 今月上旬、白金キャンパスの正門前。切り株の周辺にはひこばえが生い茂り、10枚ほどの短冊が結び付けられていた。「新しい生命を奪わないで下さい」とやや幼い字。「井深先生の約束を守って」という願い事も書かれていた。

伐採直前のイチョウは大学関係者によって装飾された=2023年

 イチョウは歩道と車道にまたがり、樹高18.5メートル、幹回り4.2メートルの巨木として区民に親しまれてきた。「井深先生」とは、2代目の総理(学長)を務めた井深梶之助氏だ。伐採の検証を求めている「教職員有志の会」の勝俣誠名誉教授は「100年以上も前だが、井深氏は後世に重大な約束を残していた」と話す。  「明治学院九十年史」によると、1921年、道路の造成を計画した当時の東京市から、学院はイチョウの巨木が立つ土地の提供を求められた。その際、井深氏が「町の風致の為(ため)に伐(き)らないという約束で東京市に無償で寄付した」と後に語ったとつづられている。

◆港区は「腐朽空洞率7割でC判定、延命処理は不可能」

 港区は、伐採の根拠は昨年3月の樹木医の診断とホームページで説明している。有志の会が開示請求した「診断カルテ」によると、根元の空洞が外観から分かり、機器による診断で腐朽空洞率が71.9%と予測された。伐採や更新の「参考値」となる50%を超えており、4段階の最下位のC判定となった。

明治学院大のホームページに掲載されたお知らせ

 昨年6月上旬、区は学院に伐採の方針を伝達。区は「根株内に倒木の可能性がきわめて高い空洞ができ、存続には樹木を支えることが必要」「樹木が交通量の多い道路上にあり、大きさからも樹木を支えることが困難なため、延命処理は不可能」として、数日後に学院側から伐採の了承を取り付け、7月下旬に完了したという。  さらに、イチョウにまつわる「約束」を「十分に理解していた」とした上で、「学院側に相談し、十分に配慮を重ねた。通常の区道上の樹木では実施しない、樹木医のセカンドオピニオンも受けた」と有志の会に説明している。

◆せめて、切り株から芽生えた”子孫”は残して

現在のイチョウ。区の伐採のお知らせ、有志の会の訴えがそれぞれ防護柵に張られている=東京都港区白金台で

 一方、学院側は「区に延命措置や代替案の提示を求めたが、安全を第一に考えて伐採・抜根することで、すでに区長の決裁が下りているとの説明を受けた」と取材に回答。約束について「『九十年史』の記載が確認できるだけで、具体的な目的や拘束力は現時点では分かりかねる」とコメントした。  昨年9月の区議会決算委員会では、玉木真区議が周知不足を指摘。「区民に与える心理的影響は大きい」とただした。「切り株から芽生えた”子孫”を後世に残してほしい」という要望が今も区民から寄せられているという。教職員有志の会の猪瀬浩平教授は「学院と地域にとって、大切な木だった。丁寧な説明、議論や検討の場が必要だった。ましてや倒木の危険性が理由なら、抜根までする必要はないはずだ」と話す。

◆樹木の専門家から「早計だった」と異論が…

 有志の会が検証を強く求めているのは、樹木の専門家からも「早計だった」と異論が出ているためだ。

高所から見た在りし日のイチョウ

 今年6月、診断カルテと写真に目を通し、現場を視察した藤井英二郎・千葉大名誉教授(環境植栽学)は「樹勢は旺盛で、健全な材と空洞の境目には防護体ができていた可能性がある。多くの枝先が枯れていれば危険だが、そのような状態でもなかった」と説明し、「貴重な樹木で、専門的な別の試験を検討するなど、『どうすれば残せるか』という視点を大事に考えるべきだった」と語った。  実際、診断カルテで処置の必要性は「あり」とされた一方、緊急性は「なし」と記された。藤井氏がさらに強調するのは「腐朽空洞率の数値だけで判断してはいけない」という点だ。

◆2021年改定のマニュアル、空洞率は「基準」から「参考値」に

 原則として都内の樹木の診断では、幹に細いキリを差し込み、抵抗の強弱で腐朽の進行度を調べる「レジストグラフ診断」が実施されている。ただ、藤井氏は「でこぼこの形状の幹を正円とみなした検査なので、誤差は当たり前のように出てしまう。腐朽したのか、健全なのか、明確にならないケースも多い」と話し、数十%程度の誤差が頻発するという。

伐採後にトラックの荷台に運ばれるイチョウの幹

 藤井氏が述べるように、都の「街路樹診断等マニュアル」は2021年に改定され、伐採の基準とされてきた腐朽空洞率は「参考値」と位置付けが変わり、「その他の被害状況と併せて危険性を判断する」と総合評価に変更された。  都公園緑地部の担当者は「樹木にはさまざまな地域の実情、歴史があり、すぐに伐採するものではない。地元に一定の配慮が必要だという観点が反映された」と説明する。  藤井氏は言う。「いったん倒木の危険性に言及してしまうと、大被害が想像されるので、市民は『しょうがない』となりがち。だからこそ、樹木医には慎重な判断が必要だ。安全性という意味では、大木には避暑の効果もある。生育には途方もない年月を要し、やみくもに伐採という手段をとるべきではない」

◆道路へのハミ出し、真っすぐにしたかったんじゃないの?

 有志の会には別の疑問も湧く。2020年の診断カルテに「道路構造令上は撤去」、2023年には「建築限界超え」という記載があるためだ。前出の勝俣氏は「『倒木』を口実にして、真っすぐな道路に改良するのが目的だったのでは」とみる。

車道にはみ出して立っていた大イチョウ=2012年、東京都港区白銀台で

 歴史・風致の観点から、現状を批判する声も。樹木の保存に詳しい鈴木雅和・筑波大名誉教授(環境デザイン)は「イチョウは東京市と学長の約束にまつわる文化財とみなせる。車道にはみ出すのは道路構造令上の問題はあるが、その場を通る誰もが許容し、おおらかに存在を認められてきた社会的寛容、ゆとりの象徴という意義がある。もちろん安全は大事だが、強迫観念になり、丸ごと逸失するのは悪手だ」と解説。こう続けた。

◆100年前の約束を、次の100年の夢に

 「少なくとも、生育する『ひこばえ』を見守るべきではないか。成長後に移植するという選択肢もある。デザインは、物ではなく、人の心のつながりも含まれるはずだ。100年前に結ばれた約束を、次の100年の夢とする試みが望ましいのでは」  明治学院大広報課は取材に「イチョウは区の所有物で、抜根の判断をするのは行政だが、学内の『残してほしい』という声も大事にしたい」と説明。港区には伐採を決めた経緯や今後の方針などを質問したが、期限までに回答はなかった。

◆デスクメモ

 3月10日、東京大空襲資料展の浅草戦跡めぐりで、浅草寺の焼けたイチョウを見た。実行委員会などのパンフによると、樹齢推定800年余の巨木も。裂けた幹や炭状に焦げた樹皮が、猛火を物語る。それでも春には新緑に身を包み、「生きていることの尊さを伝えてくれる」そうだ。(本) 

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