2024年6月22日からの8日間、天皇、皇后両陛下は英国へ国賓訪問の旅に出られた。もともとは20年に当時のエリザベス2世女王より招待を受けていたのだが、コロナ禍により一時延期され、この間に女王が22年9月に急逝されたため、4年遅れの訪問となってしまった。このたびはチャールズ3世国王によるご招待である。

快晴のロンドン市中を馬車でパレード

公式の行事は25日の正午前後に行われた、近衛騎馬連隊司令部での歓迎式典で始まった。両陛下は宿泊先のクラリッジズ・ホテルでウィリアム皇太子の出迎えを受け、連隊司令部で待ち構えていたチャールズ国王、カミラ王妃との再会を果たされた。

歓迎式典の後は国王と天皇陛下、王妃と皇后陛下がそれぞれ馬車に分乗し、バッキンガム宮殿までパレードされた。普段は雨の多いロンドンもこの時期は晴れることが多く、この日も快晴となった。「オープンキャリッジ」(屋根のない高級馬車)で進む国王と天皇陛下は、沿道の人々ににこやかに手を振られた。


皇后さまとともにウェストミンスター寺院を訪れ、無名戦士の墓に献花される天皇陛下=2024年6月25日、ロンドン(ロイター)

宮殿で軽いランチを取った後、別室へと移り、王室収蔵品部局(Royal Collection)が事前に準備した日英にゆかりのある品々を見学された。しばしの休憩の後に両陛下はウェストミンスター修道院(寺院)へと向かい、無名戦士の墓に花を手向けられた。

陛下に英最高位の「ガーター勲章」授与

メイン行事はその日の夕刻8時半から開始された晩さん会である。欧州では、中世から王侯らが相互に外国を訪問する際には、お互いの国の最高勲章を交換するのが習わしとなっている。この日もランチの後で、天皇陛下に英国最高位のガーター勲章が授与された。

欧州の勲章は元来騎士団に由来するものが多い。ガーター勲章も1348年に時の国王エドワード3世によって設立されたガーター騎士団の騎士団章に起源を持つ。本来はキリスト教徒のみに授与される栄誉であったが、19世紀のビクトリア女王の時代に異教徒の君主に初めて授与された。しかし、跡を継いだエドワード7世は儀礼に厳しい君主であり、よほどの相手でなければガーター勲章を異教徒に贈ることはなかった。

その「よほど」の相手とされたのが明治天皇であった。日本が日露戦争でロシアに一定の勝利を収めたうえ、「帝国の中の帝国」とも呼ばれた大英帝国にとって最も重要なインドの防衛に協力することが決まった第2次日英同盟の締結によって、1906(明治39)年に明治天皇にガーター勲章が贈られた。その後も大正、昭和の両天皇と上皇陛下にも、それぞれ贈られている。06年以後、非キリスト教徒でガーター騎士団に列せられているのはこれら日本の天皇のみである。天皇陛下は日本人として5人目の騎士となられた。

そのガーター勲章の鮮やかな青い大綬(だいじゅ、肩から下げ「ブルーリボン」と呼ばれる)と星章(せいしょう、星形の勲章)を身に付けた陛下は、かつて昭和天皇から贈られた大勲位菊花大綬章を着用されているチャールズ国王とともに晩さん会に臨み、日英双方の招待者と共に宴を楽しまれた。

「ポケモン」、「キティ」 ユーモア溢れる国王のスピーチ

晩さん会では「お言葉(スピーチ)」が披露された。まずはチャールズ国王が、日英両国が400年にもわたる交流を保ちつつ、自由、民主主義、法治主義といった価値観を共有し、地球環境問題や安全保障、そして芸術や学術などの文化交流でも協力していくべきだと強調された。この「文化」には国王のお孫さんたちがお好きな日本の人気キャラクター「ポケットモンスター」や「ハロー・キティ」なども含まれる。チャールズ国王らしいユーモアに溢れたスピーチに会場は笑いに包まれた。そして国王が日本語で「カンパイ!」と発声されると、日英の友好ムードは頂点に達した。

これに対し答礼のお言葉を述べられた天皇陛下は、このたびの招待に深い感謝の意を表すとともに、日英両国が地球規模の各種課題に協力して取り組んでいくことを希望された。陛下自身は、皇太子時代から「水」の問題を研究しておられる。

一方のチャールズ国王は、なんとケンブリッジ大学の学生の頃(1968年)から地球環境問題に関してつねに警鐘を鳴らしてきた、この問題のプロ中のプロであられる。近年では毎年開かれる「COP(国連の気候変動枠組条約締約国会議)」にも毎回出席し、基調演説されている。こうした問題についても、天皇陛下とチャールズ国王とは、強力にタイアップしながら手を取り合うことができるのだ。

「悲しみの時期」を超えた未来志向

天皇陛下は、英国を国賓訪問した天皇としては「3代目」にあたられる。昭和天皇(1971年)、上皇陛下(98年)に続くものであるが、お二方のご訪問と比べると、今回は明らかな違いが見られた。

特に上皇陛下は、昭和天皇に代わって戦後に国内外を回り、「太平洋戦争の慰霊の旅」を続けられた。こうした姿勢が英国訪問の際にも垣間見られ、晩さん会でのお言葉でも戦争について深く触れられた。今回の天皇陛下のお言葉にも「日英両国には、友好関係が損なわれた悲しむべき時期がありましたが」と、太平洋戦争に関する言及も見られたものの、むしろ本論については「未来志向」の部分が大半を占めた。それはチャールズ国王のスピーチも同様であった。

何より今回のご訪問で際立っていたのが、天皇陛下と国王との親密さであった。近衛騎馬連隊司令部での歓迎式典の時から、バッキンガム宮殿へ向かう馬車、さらには晩さん会の席上でも、お二人の会話は途切れることなく、時として大笑いされる様子も見受けられた。それはまるで、ユーラシア大陸の反対側から久しぶりに訪ねてきた「弟」と、歓迎する「兄」のようなお姿であった。事実、チャールズ国王の実弟アンドリュー王子は天皇陛下と同い年である(お誕生日も4日違いにすぎない)。

3代にわたって築かれた英王室との友好

年齢のことはさりながら、その親密さは、国王と天皇陛下が実の兄弟のような関係を半世紀にわたって築かれてきたことによるものなのだ。お二人が初めて会われたのは、皇太子時代のチャールズ国王が大阪万博を訪れた1970(昭和45)年にまでさかのぼる。当時国王は21歳、天皇陛下はまだ10歳であり、親密になられたのは、陛下がオックスフォード大学に留学された1980 年代前半のことである。この留学時代に徳仁親王(現在の天皇陛下)はチャールズ皇太子(当時)からスコットランドの別荘に招待され、フライフィッシングやバーベキューを楽しまれた。

以来、天皇陛下はたびたび英国を訪れ、チャールズ皇太子も平成と令和の2代の天皇の「即位礼」に参列するなど、互いに友好を温められてきた。それがまた、このたびの晩さん会での国王によるスピーチの冒頭にも表れていたのかもしれない。国王はいきなり日本語で「英国にお帰りなさい!」と述べられたのだ。それは国王自身の心から自然に出た偽らざるお気持ちだったとともに、天皇陛下も「第二のふるさと」に戻ってきたという感慨に満ちあふれておられたように感じられた。

昭和天皇も上皇陛下も、時代と状況さえ許せば、きっと英国に留学されたかったと思われる。それを果たすことができた天皇陛下の時代までに、日本の皇室と英王室は、まさに家族ぐるみの付き合いができる関係を築かれたのである。陛下とご一緒なさった皇后陛下もそれを強くお感じになったのではないだろうか。

さらに広がる日英の友好親善

27日の午前に全ての公式行事を終え、天皇陛下とともに宮殿で国王夫妻にお別れを告げた皇后陛下は、近衛騎馬連隊司令部でのあいさつ時には見られなかった、国王と王妃のそれぞれの両頬へキスをするしぐさをされた。


チャールズ国王夫妻に別れを告げられる天皇、皇后両陛下=2024年6月27日、ロンドンのバッキンガム宮殿(ロイター)

これは欧州の王侯世界でも最も親密な関係にある者にしか許されない儀礼なのである。そして今度は国王ご夫妻が日本に答礼訪問に見える番となる。最近公表された通り、ご高齢の国王陛下には健康に問題があるため、訪日は難しいかもしれない。その場合には名代としてウィリアム皇太子ご夫妻の訪問もありうる(ただしこれもキャサリン皇太子妃のご健康次第ではあるが)。

このたびのご訪問を機に、皇室と英王室との友好関係がさらに次の世代の人々にまで広がり、天皇陛下が晩さん会でのお言葉の中で述べられたように、両国の友好親善という「雄大な山」の裾野がさらに広くなることを祈念してやまない。

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。