経済小説「ハゲタカ」などで知られる小説家の真山仁さん(61)が6月中旬、能登半島地震で被災した石川県輪島市や珠洲市を取材で巡った。焼け野原になった輪島朝市、隆起した海岸、津波に襲われたまちを歩き、何を思ったのか。

能登半島地震の被災地を取材する真山仁さん=石川県珠洲市宝立町で

真山仁(まやま・じん) 1962年大阪府生まれ。新聞記者、フリーライターを経て2004年「ハゲタカ」で小説家デビュー。同シリーズや地熱発電開発を舞台にした「マグマ」、東京地検特捜部の検事が主人公の「売国」「標的」、日本の財政破綻問題を描いた「オペレーションZ」などがドラマ、映画化されている。阪神大震災を、震源から約10キロの距離にある7階建てマンション1階の自宅で体験。この時「生かされた」経験が原点となり、東日本大震災後には被災地の小学校を舞台にした連作短編集3部作「そして、星の輝く夜がくる」「海は見えるか」「それでも、陽は昇る」を発表した。ほかにノンフィクションの「ロッキード」や新書「失敗する自由が超越を生む」「疑う力」など、幅広く社会問題を現代に問う作品を発表している。最新刊は「当確師 正義の御旗」。

◇  ◇  6月14日、私は、輪島市朝市通りの現場に立っていた。  焼け落ちたままの通りで、半年前を想像した。  新年を迎え年末からの忙しさにほっと一息入れた夕暮れ刻に最大震度7の地震が襲う。そして、朝市通りの建物から出火。火事は、燃え広がり、輪島が誇る観光名所を焼き尽くした――。  大地震が起きると、火災が起きる。阪神淡路大震災(以下「阪神」)では、長田区で市街地が燃え盛り、東日本大震災(以下「東日本」)では、気仙沼市の川を炎が遡(さかのぼ)るほどの激烈な火事――。  大きな災害や大事件が発生した時、過去の事例と比較しがちだ。それによって何が起きたのかを把握しやすいからだ。  能登半島地震(以下「能登」)が起きた1月1日、私は神戸市内の自宅にいた。  震災の一報を知り、テレビの前に陣取った。  最大の高さ8メートルの津波が発生――。  「東日本」より低いな。甚大な津波被害は起きないかも知れない。  夜になって輪島の朝市通りの映像が出た。  映像を見る限り、神戸市長田のようだ。  この頃には、2階建ての民家の1階が押し潰(つぶ)されて、多くの人が生き埋めになっているという情報が入ってきた。  やはり「阪神」タイプか……。  やがて、この比較こそが、能登半島地震後最大の「不幸」ではないかと、気づいた。  だが、自然災害は、地形や人の暮らしの有り様などで、その土地それぞれの事象が発生する。半島全域の道路が壊滅し、被災地に入れないという。  さらに、海岸が隆起している――。

隆起して海底が露出した漁港を取材する真山仁さん=石川県輪島市名舟町で

 「東日本」では、逆に海岸が地盤沈下した。  能登特有の被害と状況が起きている。先例に縛られず対応すべきだと思った。  ところが、東京のメディアの報道は「型にはまった」ものが多い印象だった。その結果、過去の甚大災害よりも、「軽かったようだ」というムードが、徐々に広がっていったように思う。

◆「情報不足を、過去のデータで補っている」

 令和5年から6年にかけての年末年始は、政治の問題や社会問題が多く、1月2日には、羽田空港で衝突事故もあった。ニュースバリューは能登だけではなかった。私が出演しているニュース番組でも、1カ月を経過した頃から、「能登」の報道は減り始めていた。  そして、ニュースを発信する現場に関わるほどに、「メディアは、能登の被害状況を完全に把握できていないのでは?」と感じることが増えた。震災の情報発信地域が限定的で、それを能登全体のニュースのように伝えていたからだ。  ある日の番組で、「罠(わな)に嵌(は)まっている気がする。情報不足を、過去のデータで補っている」と、私はコメントした。  私なりに調べてみると、能登半島は、震災以前から携帯電話が繋(つな)がりにくい地であった。それゆえ震災以降は通信が壊滅している。なのに、衛星携帯電話を、避難所に大量に送っているというニュースを聞かない。  震災時に通信状況が悪くなるのは、大勢が安否確認をしているためで、今回も同様だと、思い込んでいた。だが、能登の場合は、もっと根本的に情報のインフラが未熟だったのだ。  過去の例を引き合いにして思い込んでしまうのが、「先例の罠」だ。   わずか1日半ほどの能登訪問だったが、能登半島を巡る中で、知らないこと、誤解していることの多さに驚いた。  たとえば、道路の隆起や亀裂、陥没の酷(ひど)さ。発災から半年近くで修復しているが、とにかく道路の傷みは酷く、アップダウンが激しい。

能登半島地震の被災地を取材する真山仁さん=石川県輪島市河井町で(いずれも桜井泰撮影)

 また、全国的に知名度のある和倉温泉は、営業を再開していると思い込んでいた。  実際は、多くの問題を抱え、大半の旅館は、再開の目処(めど)も立っていない――等々、知らないことがいくらでもあった。  輪島の火災現場を前に、私は自問自答していた。被災地での「取材」の手法だった。  この光景を見て私は何を感じる?  どんなことが喚起される?  何を伝えなければならない?  答えはすぐに出ない。

◆小説という形で生きるよすがを探る

 震災に付きものの火災現場、だが、ここは輪島の街のシンボルであり、とても大切な場所だ。そこを元日に破壊されてしまった。  大切な場所だから、いずれ復旧するだろう。新しい賑(にぎ)わいも生まれるかもしれない。だが、震災によって失われた大切なものは、忘れたくない。それは、何だろう。  そして、震災に襲われたことを、多くの人の記憶に止めるために、何をそのまま残すべきなのだろうか……。  輪島の復興は、この火災現場をどう甦(よみがえ)らせるかにかかっている。震災を乗り越えたエネルギーをバネに、新しい街として復興しなければならない。そのために、地元の人はどう行動すべきなのか。  こういう思考を、冷酷で他所(よそ)者の好奇心だと感じる人もいるかも知れない。だが、被災地に関わったり、震災で起きたことを伝える者の使命は、被災者と一緒に嘆き、絶望を共有することではない。  突然、震災で何もかも奪われた人がショックから立ち直るには、長い年月が必要になる。  その上、生き残った人たちは、後ろめたさを感じ、中には、「自分のせいで、大切な人が亡くなったのではないか」と考えてしまう。  生死の境界にルールはないのに、現実には、生者と死者が分けられる。  生き残った人が、「幸運」であるわけではない。これから生き残った意味を考えなければならないが、目の前には果てしない試練が横たわり気が遠くなるばかりだ。  だからこそ、部外者の目が重要になる。  被災者を時に励まし、時に叱咤(しった)し、一緒に未来への一歩を踏み出すために、冷静な目を持つ部外者の協力が必要なのだ。  だから、火事の現場で、自らに問うたのだ。  私がやるべきことは、被災地で起きたありのままを小説という形で伝え、希望を抱き生きていくためのよすがを、探ることだ。今までの被災地取材や作品で、その役割を果たしてきたと言うつもりはない。  それどころか、余りの己の無力さに打ちのめされた。  また、被災地を取材すると、日本社会が隠していた暗部だったり、近い未来に顕在化する「不幸」を目の当たりにする。未来は、今よりも辛く厳しいかも知れない。  それでも、何かやれなければという思いがあれば、なすべき事を、なすしかないのだ。  ましてや能登半島は、「先例の罠」に嵌まっている。  今、起きていることを物語にして伝えよう。  被災地の上空を舞うカモメを見ながら、私は決意を固めた。 

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