平和を願い、国民に寄り添う。上皇さまが在位中に貫かれた姿勢の原点とされる場所がある。
栃木県日光市。戦中、政府が進めた学童疎開は小学5年だった上皇さまも例外ではなく、1944年7月から終戦後しばらくまでをここで過ごした。
あれから80年。上皇さまは、同じく疎開経験がある上皇后美智子さまと、忘れられぬ地を訪ねた。(共同通信=志津光宏)
▽厳しい生活
上皇さまの疎開先は日光田母沢御用邸だった。現在は記念公園として建物や庭が公開されている。
関係者によると、食事や勉強の合間にこまで遊ぶこともあったという。
空襲が激化した戦争末期、政府は皇太子だった上皇さまの身の安全を守るため、学習院初等科の同級生と共に疎開させた。
上皇さまは御用邸近くの東大大学院付属植物園日光分園に通い、近くのホテルで暮らす同級生らと授業を受けた。
1945年7月、宇都宮市が空襲に遭うと、奥日光の「南間ホテル」(廃業)に移った。「『遠足』と称し、食べられる木の実を一緒に集めたこともあった」(学友)。生活は厳しかったという。
▽戦争を肌身で
8月15日。父昭和天皇がラジオで終戦を告げた「玉音放送」をホテルの一室で聞いた。
放送直後の上皇さまの様子を、学友は「何も語らなかったが、真剣な表情だった」と振り返る。
帰京は11月だった。原宿駅に降りると、一面焼け野原。翌年、正月の書き初めで「平和国家建設」と、力強く記した。
芽生えた平和への思いは、戦後の節目に「慰霊の旅」などで示されてきた。
今回の日光旅行も当初の計画は戦後70年の2015年。災害や体調不良で延期が続いたが、中止にはしなかった。
「少年期に戦争を肌身で感じた忘れられない場所」と側近。5月28日、旧御用邸に足を運んだ上皇さまは、自らも逃げ込んだ防空壕の跡地が残る庭を、上皇后さまと歩き、懐かしんでいた。
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