沖縄がアメリカ統治下だった1959年6月30日、嘉手納基地を離陸したアメリカ軍の戦闘機が、今のうるま市石川にある宮森小学校に墜落し、戦闘機のパイロットは脱出しましたが、児童11人を含む合わせて18人が命を落とし、200人以上がけがをしました。
事故から65年となる30日、宮森小学校では遺族や体験者など200人以上が参列して慰霊祭が開かれました。
参列者は犠牲者の名前が刻まれた碑に花を手向け、順番に焼香して手を合わせていました。
このあと体育館に移動し、当時、小学校から7キロ離れた高校に通っていた音楽家の海勢頭豊さん(80)が65年に合わせて作詞・作曲した事故の悲惨さや平和の大切さを伝える歌を披露しました。
そして、事故で小学3年生の弟を亡くした上間義盛さん(81)が遺族を代表して「基地があるが故に起きた悲惨な事故です。このような悲劇が起こることがないように祈るばかりです」とあいさつしました。
今は佐賀県に住んでいて今回、初めて慰霊祭に参列した山本惠子さん(71)は、事故に巻き込まれ頭の骨を折る大けがをしていて「基地で生活する人もいるので折り合いが難しいと思っていますが、悪いものは悪いと声をあげていかなければならないと思います」と話していました。
“記憶継承につなげて” 事故を伝える歌がつくられる
事故から65年に合わせて音楽家の海勢頭豊さん(80)が記憶の継承につなげてほしいと、事故の悲惨さや平和の大切さを伝える歌を作詞・作曲しました。
海勢頭さんは、沖縄戦の追悼式などで歌われる平和を祈る歌、「月桃」(げっとう)を作ったことで知られ、事故当時、小学校から7キロ離れた高校の1年生で数日後に現場を訪れました。
海勢頭さんは当時を振り返り、「福木が倒され、民家が潰され、校舎に何かが突っ込んだあとが見えて、大変な事故だと分かった。宮森小学校の事故をずっと引きずったままきょうまで来ている」と述べました。
数年前から知人にこの事故のことを伝える歌を作ってほしいと依頼され、65年に合わせて曲を作りました。
歌詞は「福木花散り香る季節は過ぎて」に始まり、「石川岳の頂きでふるさとを眺めよう」などの表現に、若い頃に海勢頭さんが目にした周辺の情景をちりばめています。
サビの部分は「宮森の子は永久に平和の使徒になる」という歌詞で、子どもたちに平和な社会の担い手になってほしいという願いが込められています。
歌の完成後、海勢頭さんは「歌には軍隊で平和はつくれないという思いを込めました。このような悲劇がどうして起きたのか歌を通じてみんなで共有し、平和な世界をつくっていってほしいです」と話していました。
初参列の事故の体験者「風化させないよう伝えていきたい」
慰霊祭に初めて参列した山本惠子さん(71)は65年前、宮森小学校の敷地にあった幼稚園に通っていて、事故で頭の骨を折る大けがをしました。
今回、宮森小の事故を語り継ぐ活動を続ける地元のNPO「石川・宮森630会」が、今は佐賀県で暮らす山本さんに参列を呼びかけました。
29日、「石川・宮森630会」の聞き取り調査に参加した山本さんは、事故の記憶はほとんどないとしたうえで、「アメリカ陸軍の病院で看護師さんに英語で話しかけられて遊んでもらった記憶が少しあります」と当時を振り返りました。
そのうえで「傷痕が分からないように中学生までは髪を伸ばしていました。事故を風化させないように自分の体験を伝えていきたいです」と話していました。
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