神戸空襲で亡くなった人の名前を刻む「いのちと平和の碑」の建立に奔走した記者の伯母で、中田政子さん=享年(75)=は沖縄糸満市摩文仁(まぶに)の「平和の礎(いしじ)」を参考にしたという。今月23日にあった「慰霊の日」には平和の礎を多くの人が訪れ、沖縄戦で亡くなった人を悼んだ。戦災犠牲者の名を碑に刻むことにどんな意義があるのか。改めて考えた。(宮畑譲)

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◆祖父の名前刻み「母の戦後が終わりました」

 「これで母の戦後が終わりました」。連絡を本紙に寄せたのは、東京都西東京市の横井道子さん(75)。1945年3月17日の神戸空襲で亡くなった母方の祖父・磯要(いそ・かなめ)さん=享年(47)=の名を今月2日、神戸市内で開かれた追加刻銘式で碑に刻んだ。  防火責任者だった祖父は空襲の際、逃げ遅れたと考えられている。遺体は見つからなかった。横井さんは終戦の3年後に生まれ、中学に入るころには東京に移った。戦後、母親が戦争や祖父のことを話すことはほとんどなかったという。

神戸空襲の犠牲者の名前が刻銘された「いのちと平和の碑」=神戸市中央区で

 それが、2020年に亡くなる前ごろから「戦争はあかんで。絶対にあかんで」と言うようになった。「20歳に満たなかった母は弟の手引いて火の中を逃げ惑った上、自身の父親を亡くした。今で言うトラウマ(心的外傷)で、ずっと言えなかったのだと思う」と横井さんは振り返る。  神戸を観光した際に偶然、碑を見かけて空襲の犠牲者の名が刻まれていると知り、祖父の刻銘に至った。「長い間、神戸を離れていて碑のことは知らなかった。これで母の戦後の苦労が記録された。亡くなる前に見せてあげたかった。沖縄の平和の礎で、皆さんが名前をさすって手を合わせる気持ちがよく分かった」

◆1995年に建てた「平和の礎」今年も181人の名前を追加

 平和の礎は、故・大田昌秀県政時代の1995年、戦後50年を記念して建てられた。国籍や軍人、民間人関係なく、戦没者24万人以上の名前が刻まれている。

沖縄戦犠牲者の名前が刻まれた「平和の礎」の前で手を合わせる遺族=2020年6月23日、沖縄県糸満市の平和祈念公園で

 礎の刻銘検討委員会座長を務めた沖縄国際大の石原昌家名誉教授(平和学)は「一カ所に名前を刻むことで、戦争の悲惨さが『見える化』する形で深まり、残すことができる」と碑の意義を説く。礎には今年、181人分の名前が追加された。「名前を新たに刻むことで80年前のことを掘り起こし、形にすることは風化や戦争にあらがう力になる」と強調する。  神戸の碑が建てられたのは2013年。「神戸空襲を記録する会」には、以前から一部犠牲者の名簿があったが、2005年から収集を再開。その後、市役所も刻銘希望を受け付けるようになった。

◆戦災の記録は民間任せ、国・行政は向き合わず

 1997年に代表に就いた中田さんは、平和の礎や阪神・淡路大震災の犠牲者らを刻んだモニュメントが2000年に建てられるのを見て、「形にすれば名前を見てもらえる。後になって知らない人がきても振り返ってくれる」と、碑の建設に向けて動き出したという。  「空襲・戦災を記録する会」の工藤洋三事務局長によると、空襲犠牲者の名を刻銘したものは「大阪国際平和センター」(ピースおおさか)や千葉市などにあるが、被害都市の数に比べ多くはないという。

犠牲者の名前が刻まれた碑に手を合わせる遺族=6月2日、神戸市で

 工藤さんは「年に一回でも見て戦禍を思い出す。情緒的なようだが、意味はある。ただ、多くは活動が民間に委ねられている。これだけの被害を出した国、政府、行政が向き合ってこなかったことも根本的な問題としてある」と指摘する。  「名簿の維持、管理など行政がある程度関与するのが理想的だが、積極的な自治体は少ない」と工藤さん。空襲の体験者や直接の遺族は減り、名簿の収集や新たな碑の建設へのハードルは年々、高くなっている。建設には「市民の声の盛り上がりが必要」と話している。 

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