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日本と北朝鮮が5月、秘密裏に接触したと報じられましたが、拉致問題に進展はあるのでしょうか。今回、拉致被害者の曽我ひとみさんが取材に応じ、「横田めぐみさんは絶対に生きている」と証言しました。

※この記事は2024年6月16日に「サンデーステーション」で放送した企画の未公開部分を含む完全バージョンです。

■横田めぐみさんと交わした“忘れられない会話”

若い人に拉致問題を知ってほしいと、地元の小学校や中学校で講演を行っている曽我ひとみさん。

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「ここに映っているのは誰でしょうか?分かる人」 児童
「曽我ひとみさん」 拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「じゃあ私はどちらでしょう?」 児童
「赤ちゃん」 拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「そうです、その通りです。よくわかりましたね、ありがとう」

今まで以上に救出活動に力を入れたいと、4月から市の拉致被害者対策係で勤務しています。

ふるさと「うさぎ追いしかの山〜」

1978年、准看護師として働いていた19歳のときに拉致されたひとみさん。
実は、北朝鮮で一緒に暮らした横田めぐみさんと「ふるさと」を歌っていたといいます。 拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「人気のない山の方にちょっと散歩に出かけたりすることもたまにありまして、大きな声だとやっぱり指導員にバレてしまうので小さい声ですけど」

Q.切ないですね

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「切ないですね本当に。家族にも会いたいですしね、このままずっとここなのかとか、どうしたら日本に帰れるんだろうねって」

拉致された翌日、北朝鮮の港に到着したひとみさん。その数日後です。移動させられた平壌の招待所にめぐみさんがいました。

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「玄関先で私を迎えてくれまして、私の妹と年齢が同じくらいなので本当にかわいいなって思いながらも、どうしてこんなかわいい子がこんなところに1人でいるんだろうという疑問がすごく大きかったのを覚えてます」

その日の夜、2人はこっそり日本語でこんな会話を交わしたといいます。

(2人の会話)
めぐみさん「そのひざのケガどうしたの?」
ひとみさん「家の近くで男の人に捕まって無理やり連れて来られたの」
めぐみさん「実は私も…家の近くの曲がり角で後ろから襲われたの」
ひとみさん「2人とも同じだね」

ひとみさんの9カ月ほど前、同じ新潟から部活の帰り道に13歳で拉致されためぐみさん。

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「めぐみさんはすごく絵を描くのがすごく上手だったので、 私の手を写生してくれたりしてとっても上手だったんです」
「勉強もすごくできて、私がたくさん朝鮮語を教えてもらいました。もちろん年下ですけども」 その後、2人の教育係として現れたのが、地村さん夫妻や原敕晁さんを拉致した疑いで国際手配されている辛光洙(シン・ガンス)容疑者。「義務教育は習わないとな」と言って、めぐみさんに日本語で数学と理科を教えていたといいます。
ある日、辛容疑者はひとみさんに小さな声で… (辛光洙容疑者)
「横田めぐみを拉致したのは自分だ」

19歳と13歳…
姉妹のように支えあいながら8カ月ほど一緒に暮らしましたが、別れが訪れます。
めぐみさんは拉致された時に持っていた赤いバッグをひとみさんに手渡しました。

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「『私だと思って持っていって』って言ってくれまして本当にすごく嬉しかったんですけど、ここでお別れしなきゃいけないという悲しい気持ちもありましたし」
「(別れた後)月に何回か買い物に出かけるんですけど、その度にずっとこの赤いバッグも一緒に持っていきまして、『あっ私のバッグずっと使ってくれているんだな』って、もしかしたら(めぐみさんの)目に留まることがあるかもしれないかなと思いながら」 めぐみさんと別れた後、ひとみさんは北朝鮮当局の意向で引き合わされた元アメリカ兵のジェンキンスさんと結婚します。
当時北朝鮮に亡命していた元アメリカ兵はジェンキンスさんら4人。 それぞれの妻は、タイ人、レバノン人、ルーマニア人の拉致被害者で同じアパートで暮らしました。
ひとみさんは当時、めぐみさん以外の日本人拉致被害者も目撃しています。
1978年に鹿児島県から拉致された増元るみ子さん。 拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「北朝鮮に行ってしばらくしてから、革命の英雄たちを祀っているお墓がありまして、そこを見に行った時にちょっと遠めですけども、増元さんにお会いしました。見かけました」 1980年代前半にヨーロッパから拉致された有本恵子さんと石岡亨さんとみられる夫婦も… 拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「(1986年ごろ)楽園百貨店でちょっとだけお見かけしたんですけど、(レバノン人拉致被害者の)シハームさんがちょっと知り合いだったみたいで、英語で話しているので」

ジェンキンスさんによれば、レバノン人拉致被害者のシハームさんは有本恵子さんとみられる日本人女性と同じ産科病棟に入院していて、恵子さんとみられる女性は男の子を出産したといいます。
ひとみさんも2人の女の子を出産。
家族との絆を支えに、厳しい北朝鮮での生活を乗り越えました。
2人は祖国を忘れないため、寝る前には必ず、お互いの母国語で挨拶していたといいます。
ジェンキンスさんは日本語で…ひとみさんは英語で…
一方、横田めぐみさんも、ひとみさんと別れたあと韓国人拉致被害者と結婚し、ウンギョンさんを産みました。
北朝鮮で新しい家族を持った2人。しかし2002年、その運命が大きく分かれます。

【日朝首脳会談2002年9月】
北朝鮮がひとみさんら5人は「生存」、めぐみさんら8人は「死亡」と発表したのです。 横田滋さん
「良い結果が出るということを楽しみにしていました。しかし結果は…死亡という…残念なものでした」 横田早紀江さん
「絶対にこの何もない、いつ死んだかどうかさえ分からないような、そんなことを信じることはできません」

北朝鮮に家族を残して帰国したひとみさん。
「一時帰国」のつもりだったため、あの赤いバッグを持ち帰ることはできませんでした。

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「日本に帰るんだったら絶対めぐみさんもいるよねって私はそう思い込んでいまして、でもまあ行ったらいなかった。自分の指導員には(めぐみさんも帰れるか)聞いたんですけど、その人は『わからない』と」

空港にいたのは、めぐみさんの娘のウンギョンさんでした。
その面影から、ひと目でめぐみさんの娘だと分かり、思わず抱きしめたといいます。

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「『お母さんは?』って聞いたんですけど、『いるよ』っていうような話をしてまして、お互い、特に私はそうだったんですけど、すぐにもう涙が止まらなくて」

Q.生きているニュアンスで言っていた?

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「そうですね」

Q.そこにはいないわけですから「別の場所にいるよ」というような「いるよ」ですよね

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「私はそう感じましたけど」 ウンギョンさんはその後「お母さんは死にました」とも発言していますが、ひとみさんは最初のやり取りなどから、めぐみさんは「絶対に生きている」と確信しているといいます。
ひとみさんには、めぐみさんと交わした忘れられない会話があります。 拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「めぐみさんは『私のお母さんはいつも香水の匂いがしていて、 いい匂いだったんだ』とか、『私には双子の弟がいてとってもかわいいんだよ、わたし大好きなんだ』って話をしたりとか、うちとは違うなってすぐに思っちゃって。私の母はやっぱり仕事柄、油まみれで仕事をしているので帰ってきても油の匂いしかしていなかったので」

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■安否不明の母・ミヨシさんとセーターの思い出

■安否不明の母・ミヨシさんとセーターの思い出

1978年、ひとみさんと近所の商店に買い物に出かけ、一緒に3人の男に襲われた母親のミヨシさん。それ以来、消息が途絶えているのです。

オートバイによる交通事故で怪我をした父・茂さんに代わって家計を支えた母・ミヨシさん。
朝から農作業をして、昼は工場で油まみれになって働き、夜中まで内職をする―
そんな働き者の母だったといいます。 拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「たぶん小学校の5、6年生くらいだったかなといま記憶しているんですけど、友達がすごく学校で新しいセーターを着てきて、羨ましいなってすごく思って。お母さんが隠してあったお金を勝手に持ち出しまして」

ひとみさんはこの時買ったセーターを、今でも大切に保管しています。

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「その時ばかりは母親がなぜか怒らなくて。『ひとみが1人で買うてきたんだな』って、『自分が買ってあげられないから、かんねんな』と言うんですけど、ごめんなさいって、母親の方が謝ってきて」
「母親も泣いているし、私もその母親の顔を見て私も一緒に泣いて」

去年、ひとみさんが高校3年生の時に書いた作文が見つかりました。
タイトルは「母」―。

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「働き者の母、涙もろい母、ドジな母。でも私はこんな母が誰よりも大好きです」

Q.すごいお母さん子というかお母さん大好き?

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「大好きです」

一緒に拉致されたはずの母・ミヨシさんは、いったい、どこに行ってしまったのか?
袋づめにされた状態で船に乗せられたとき、ひとみさんは“何者かの話し声”を聞いています。

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「話をしている言葉ひとつひとつは聞き取れなかったんですけど、たどたどしい日本語を女の人が話していまして、それを誰に話をしているかっていうのは、私自身も分からなかったんですけど」

Q.ひとみさんを最初から狙って拉致したのか?

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「難しいところですね、私自身も最初から計画性があって私を狙っていたのか、それともたまたまいたから拉致をしたのか、その辺のところって私自身もはっきりわからないところで」 北朝鮮に着いた直後、拉致の実行犯とみられる女工作員キム・ミョンスク容疑者はひとみさんにこう語っています。 (キム・ミョンスク容疑者)
「お母さんは佐渡に帰した。元気で暮らしているから心配しなくていい」

北朝鮮で辛いときに支えてくれたのは、母親に買ってもらった「腕時計」でした。

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「ずっと時計が母代わりというか、時計にいろんなことを愚痴を言ったり励ましてもらったり」
「時計に向かって怒ったり泣いたりしてました」

日本に帰ればお母さんに会える―。
そう信じていましたが、帰国直前、初めて日本にいないことを知らされます。

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「(日本政府調査団に)面会した時にはっきりと言われました。日本にはお父さんと妹さんしかいませんと。いや、すごくショックだったし何が何だか…」

【5人の拉致被害者帰国 2002年10月】
24年ぶりに帰国した日本に、一番会いたかった母・ミヨシさんの姿はありませんでした。

曽我ひとみさん
「とても会いたかったです」

北朝鮮は、ミヨシさんは「未入境」だとして、拉致そのものを認めていません。

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「一緒に、同じときに、同じ時間に、同じ場所で拉致をされて、北に入ってきていないっていうことはいったいどういうことなんだろうって、反対に私が聞きたいような気持ですけど今」
「全然いないのに『(日本に)いる』ということでしたし、『朝鮮語の勉強を一生懸命すれば時期を見て日本に帰してやる』とか、『結婚して子どもが生まれれば里帰りさせてやる』とか」

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■ミヨシさん生存の手がかりか…地村富貴恵さんが見た手紙

■ミヨシさん生存の手がかりか…地村富貴恵さんが見た手紙

ひとみさんの下には、母・ミヨシさんの生存につながる可能性がある情報も寄せられています。

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「地村さんの話だと、『もしかしたらお母さんが書いたメモかな』みたいな話をされていたんですが」
「もし母であれば元気でいる証拠になるので、そうであってほしいような、でも違うのかなとか」

ジャーナリストの有田芳生氏が入手した、拉致被害者の聞き取り内容をまとめた文書。
そこには「久我ヨシ子」と書かれた手紙に関する地村さん夫妻の証言が記載されています。

(地村富貴恵さんの証言)
「忠龍里(招待所)にいた頃、三面鏡の引き出しの中から手紙が出てきたことがある。おそらく誰かに見て欲しいと考えてそこに入れたのだろう」

手紙には、

名前は「久我ヨシ子(または良子)50代」
「70年代に革命のため佐渡から朝鮮に来た」
「〇〇〇(※カタカナ)工場で勤めていた」
「主人は交通事故で亡くなった」
「26歳の娘がいて結婚している」

などと日本語で書かれていたといいます。

曽我ミヨシさんと年齢など違っている点もありますが、「佐渡」という地名や、「工場」で働いていた点、夫が「交通事故」にあった点などが一致しています。
また、北朝鮮に拉致された疑いが排除できない特定失踪者のリスト約470人の中に、「久我ヨシ子」という名前の人はいません。
地村富貴恵さんは招待所の世話係から「その女性は直前まで生活していた人で、その後、韓国人漁師と結婚した」と聞いたといいます。

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■「日朝関係者が秘密接触」報道も…日本政府に望むこと

■「日朝関係者が秘密接触」報道も…日本政府に望むこと

先月、モンゴルで日本と北朝鮮の関係者が秘密接触したと韓国メディアが報じました。
北朝鮮側は偵察総局の関係者ら3人が出席し、日本側からは“政治家”も出席したとしています。

Q.日本政府への要望は?

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「水面下で動いているという話はずっと耳にはしているんですが、 なかなかそこに行動が伴っていかない。もちろん相手が相手なので、とても難しい交渉だとは思うんですけど、1時間でも1分でも早くしっかりと交渉していただきたいと、今それだけを願っています」

■「かあちゃん、今どうしていますか?」引き裂かれた家族

【佐渡に帰郷(2002年)】
帰国できた喜びより、母の行方が分からないショックの方が大きかったというひとみさん。

抱擁する父・茂さん
「ずっと待っとった」 支援者
「お父さん、あんまり喜んで酒あまりたくさん飲まないように」 父親の茂さんは、妻との再会を果たせぬまま、73歳で亡くなりました。
ふるさとに戻り、新たな生活に少しづつ慣れていく一方で、日に日に募るのは母・ミヨシさんへの思い…
そして、北朝鮮に残した夫と子どもたちへの思い…

【インドネシアでの再会(2004年)】
離れ離れになって2年、ようやく家族がひとつになりました。
佐渡に住むことになったジェンキンスさんは「ここは日本で君は若い。別れてほしければ僕は別れるよ」と言いましたが、ひとみさんの答えは「NO」だったといいます。

土産物店の店員
「ジェンキンスさん、ブルーリボンのシールを貼っておせんべい用意しています」

佐渡市内の土産物店で働き、観光客の人気を集めたジェンキンスさん。
7年前、77歳で亡くなりました。

ジェンキンスさん
「佐渡ライスおいしい」 当初日本語を話せなかった2人の娘も、今では結婚して独立し、孫も生まれましたが… 曽我ひとみさん
「拉致被害者救出の署名活動を行っております」

今の生活に幸せを感じれば感じるほど、考えてしまうのは、最愛の母・ミヨシさんのことだといいます。
ひとみさんは帰国後、自宅のタンスから見慣れない着物を見つけました。

拉致被害者 曽我ひとみさん(65)
「この着物がしつけ糸がついたままで、タンスの中に入っていまして」
「私が拉致をされたのが19歳なので、母が成人式のためにこっそり準備をしていてくれたものなのかなと」
「やるせない気持ちと同時に、着物を着た姿を母にどうしても見せてあげたいなと」

北朝鮮に向けて家族のメッセージを届けるラジオ放送「しおかぜ」。
ひとみさんは、母・ミヨシさんにこう呼びかけました。

曽我ひとみさん(2017年3月)
「かあちゃん、今どうしていますか?元気でいますか?もうすぐ佐渡は桜の季節になります。時々小学校6年生の時の卒業写真を見ます。いつも、いつも優しかったかあちゃん。1日も早く佐渡に帰ってきてください。私たちはいつまでも、いつまでも待っています」 この記事の写真を見る(20枚)
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