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去年6月、大学生の冨永とみなが紗菜さなさん(当時18歳)を横浜市鶴見区のマンションで殺害した罪などに問われた元交際相手の伊藤いとう はる被告(23)の裁判員裁判が、事件からおよそ1年たった今月、横浜地裁で行われている。検察側は、17日に行われた公判で「首や胸、腹部を4回に渡って刺す強い殺意があり、計画的な犯行」だとして伊藤被告に対して懲役20年を求刑した。紗菜さんの家族からも認められ、仲睦まじい様子だった二人に何があったのか。未来ある18歳の女性の命がなぜ奪われてしまったのか。10日の初公判からの内容を振り返りながら詳報する。

(テレビ朝日・社会部 小古山拓矢)

■「家族の一員のように接してくれた」良好な関係だった伊藤被告と冨永さん家族

黒いTシャツに、坊主に近い短髪。

送検時とは全く異なる姿で初公判に現れた被告は、検察官が起訴状を読み上げると、肩を上下に震わせ泣き出した。「間違っているところはあるか」と裁判官から問われると、声を絞り出すように小さく「ないです」と答えた。

始まりは3年前に遡る。紗菜さんは2021年頃、当時アルバイト先で店長をしていた伊藤被告と出会い、3月頃から交際を始めたという。

誕生日やクリスマス、元日など、トラブルが生じる前まで、伊藤被告は紗菜さんの実家を何度も訪れるなど、紗菜さんだけでなく両親とも良好な関係だった。ある時には、父親の友人と冨永さん家族の食事会に、伊藤被告も招かれていた。

12日に行われた弁護側による被告人質問で、伊藤被告は当時を振り返り「家族の一員のように接してくれた」と感謝の言葉を口にした。

両親は、紗菜さんを信じて好きなことをやらせ、どんな時も味方でいたという。そんな紗菜さんが選んだ伊藤被告を両親も信じた。紗菜さんは、交際後しばらくして伊藤被告の家に泊まることが増え、やがて半同棲のような状態となっていた。

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■「平手打ちやお腹を蹴った」嫉妬からケンカや暴力に…崩れた2人の関係

■「平手打ちやお腹を蹴った」嫉妬からケンカや暴力に…崩れた2人の関係

良好に見えた関係は、距離が近づくにつれ見えてきた被告の執着心で次第に崩れていく。伊藤被告は紗菜さんへの束縛が激しかったという。携帯電話には位置情報を共有するアプリを入れ、どこで何をしているのかが分かる状態になっていた。また、そして紗菜さんが伊藤被告以外の男性と仲良さそうに話したり連絡を取ったりしていると、激しい口調で詰め寄ったという。

伊藤被告は、12日の被告人質問で弁護士から関係性について尋ねられると「ささいなことでけんかになり、平手打ちをしたり、お腹を蹴ったりするなど暴力をふるったことがある」と答えた。伊藤被告は、ケンカでの暴力は4〜5回はあったと話した。

こうしたことが重なり、紗菜さんは伊藤被告の元を離れ実家に帰り、事件の1週間前には伊藤被告と別れることを決意したという。しかし伊藤被告は紗菜さんや両親にしつこく復縁を迫るメッセージをSNSで送り続けた。

「紗菜ちゃん、戻ってきてよ」

「紗菜ちゃんがいなくなると俺が悲しくなるよ、それでもいいの」

「紗菜ちゃん、戻ってこなくていいからせめて位置情報はオンにしてよ」

「少しでいいから会って話そうよ」

紗菜さんは「今は会えない、少し時間を置こう」と冷静になるように返す。

危険を感じた紗菜さんの母親も「今は時間と距離(を置くこと)が必要」などと、一度立ち止まって、冷静に現状と向き合うように何度も伊藤被告を諭した。しかし、伊藤被告は何を言われても自分の要求のみを言い続けた。親からも認められた仲睦まじい2人の関係は、完全に崩れていた。

10日の初公判では、伊藤被告が送ったこれらのSNSメッセージが証拠として提出された。男性検察官が伊藤被告役で、女性検察官が紗菜さん役でこれらのやり取りを代読した。感情を込めずに淡々とやり取りが読み上げられたが、言葉のキャッチボールがどこかおかしい。一方通行な要求が延々と続く異常なやり取りが静かな法廷で10分以上にわたって読み上げられると、聞いていた裁判員の顔が険しくなっていった。

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■「包丁で脅せば復縁できるかも…」伊藤被告の理解しがたい行動原理

■「包丁で脅せば復縁できるかも…」伊藤被告の理解しがたい行動原理

伊藤被告はなぜ紗菜さんを殺害したのか。犯行動機を問われると、伊藤被告は「包丁を見せて脅せば戻ってきてくれると思った」と答えた。それで戻ってきたとしても本当にヨリを戻したと言えるのか、誰もが持つ疑問を検察官に指摘されても、伊藤被告は「その時は本当にそう思ったんです」とだけ答えた。

殺害された冨永紗菜さん(遺族提供)

会うことを拒否された伊藤被告は、何とか直接話し合うため、紗菜さんのアルバイト先で待ち伏せたという。アルバイト先の同僚が機転を利かせ会わせないようにし、紗菜さんの父親が迎えに来ることでこの時は事件には発展しなかった。この時、伊藤被告と顔を合わせた紗菜さんの父親は伊藤被告に「次はないぞ」と厳しく注意をした。

独りよがりな連絡を続け、アルバイト先にも直接来るような男に対して、警察に依頼するなどもっと厳しい対応ができたのではないか。第三者が後からそう言うのは簡単だが、冨永さん家族は伊藤被告を信じ続けた。しかし、最悪の結果となってしまった。

■「龍稀くんにも将来があるから」信じ続けた被害者家族の優しさあだに

去年6月29日早朝、伊藤被告は紗菜さんが被告の家に置き忘れていた鍵を使って冨永家に侵入し、部屋の布団で寝ていた紗菜さんに話しかけた。実家の自分の部屋に、執拗に復縁を迫る元交際相手の男がいる。どれほどの恐怖だっただろうか。

慌てた紗菜さんは「お母さんがいるから」と伊藤被告を連れて家を出て、マンションの外廊下で話したという。

伊藤被告は裁判で、その場で30分〜1時間(検察官の追及で実際は15分ほどだったと判明)に渡り会話をして「やっぱり2人で話せば大丈夫じゃん」と思った、復縁の可能性を感じたと説明した。

紗菜さんは家の中に戻ると、母親に「今、龍稀君がいる」と説明。出先で連絡を受けた父親が家に駆け付け3人で対応を考えたが、紗菜さんは「龍稀くんがかわいそうだから警察には連絡しないであげて」と両親に頼んだという。両親は紗菜さんの言う通り警察への連絡をやめたが、心配な父親は紗菜さんを車で送ることにした。

しかし、父親の車に向かう紗菜さんを、背後から現れた伊藤被告が襲う。会話が終わり帰ったと思われていた伊藤被告は、マンションの外階段に潜んでいた。伊藤被告は、紗菜さんとの会話が終わったあと隠れていた理由を「ここで別れたら被害者が別の男性とつきあってしまうなどと考え、自分には何も残らなくなってしまうと感じ、殺意がわいてしまった」と述べた。

駐車場に向かう紗菜さんの後をつけた伊藤被告は「紗菜ちゃん、ごめんね」と言って包丁を突き出し、4回刺したという。紗菜さんの死因は出血性ショックだった。

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■「いつかお母さんになる未来。幸せな未来しか想像してなかった」

■「いつかお母さんになる未来。幸せな未来しか想像してなかった」

冨永さんの命が奪われてから間もなく1年。冨永さんの母親は、夜も眠れず、家事も手がつかない状態だという。母親は法廷で「時間が癒してくれるなんて嘘だ」と思いを語った。紗菜さんについても「子どもや動物が好きで優しかったあの子が、いつかお母さんになる未来。家族が増えてますます賑やかになる、そんな幸せな未来しか想像してなかった」と泣きながら法廷で話した。

父親のもとには、事件後、冨永さんの友人から1通の手紙が届いた。手紙には「自分が周囲からよく思われていないときでも、紗菜ちゃんだけは優しく接してくれた」と書かれていたという。父親は裁判で涙ながらに紗菜さんを思い「家族だけでなく、どんな人にも優しく接することができる子だった」と話した。そして最後に「(紗菜さんは)生きがいであり、娘の夢が僕の夢で、娘の幸せが僕の幸せだった。いつも一緒だと思っていた」と話した。

強く印象に残ったのは、ここまでの裁判の中で、両親とも伊藤被告への罵りや恨みを発することはなかったことだ。

■どんな会話があったのかを知るのは伊藤被告だけ

伊藤被告は犯行を認めているので、裁判の争点は量刑となる。紗菜さんは亡くなっているため、伊藤被告との間に何があり、2人がどのような会話をしたのかは、全て伊藤被告の裁判での答弁がベースになる。

弁護側は、伊藤被告は別れを切り出されたことで人生全てを失ったと考えたこと、犯行は突発的であり、9歳から診断されていた自閉スペクトラム症の影響も少なからずあったことなどを挙げ、情状酌量を主張した。

一方、検察側は、犯行直前、現場に向かう車の中で伊藤被告が「家に行ったら必ず刺す。必ず刺さないと。未遂で捕まったら紗菜がハッピーなだけ」と独り言をいうドライブレコーダーの映像などから、強い殺意があったと指摘。また犯行直前に「復縁できるかもしれない」という手ごたえがあったのならば、なぜ紗菜さんを殺す必要があったのか、などと伊藤被告の証言を「責任逃れのための嘘」と指摘し、懲役20年を求刑した。

求刑ののち、裁判長に最後に言いたいことはあるかと問われると、伊藤被告は「本当に取り返しのつかないことをしてしまった。命がけで償っていきたい、本当に申し訳ありませんでした」と謝罪の言葉を口にした。

独りよがりな行動をとり続けて18歳の命を奪った伊藤被告にどのような罰を与えるべきなのか。紗菜さんは殺害されてしまい、実際にどんな気持ちでどのような会話をしたのかは、男の話をもとにするしかない。苦悩する裁判員たちがくだす結論は21日に出される。

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