【6・23 沖縄「慰霊の日」 首都圏から願う平和㊦】  全国各地にある沖縄出身者の互助組織で最古とされる「川崎沖縄県人会」が創立100周年を迎えた。1923年の関東大震災で甚大な被害を受けた県人同士が「ゆいまーる(助け合い)の心」で結束しようと翌24年に発足。故郷から遠く離れた川崎の地で励まし合いながら、三線(さんしん)や琉球舞踊などの沖縄文化を根付かせてきた1世紀だった。

創立100周年記念式典で披露された伝統の舞踊=川崎市幸区で

 沖縄の祝儀曲として代表的な「かぎやで風」、紅型(びんがた)衣装に花がさをかぶり、ゆったりと舞う「四つ竹」。今月9日、市内で開かれた創立100周年記念式典では、色鮮やかな衣装で伝統の舞踊などを披露する県人会の会員たちに、惜しみない拍手や歓声が送られた。

◆大正時代に沖縄から川崎へ

 川崎に多くの沖縄出身者が移住したのは大正時代。現在の川崎競馬場(川崎区)の場所にあった富士瓦斯(がす)紡績の工場が労働者を組織的に募集したのを機に市内に集住するようになった。  県人会によると、文化や風習の違い、差別など多くの苦難を抱えていた沖縄出身者は関東大震災でさらなる困難に直面したことで、同郷の仲間で手を携えようと会をつくったという。望郷の念を抱く会員のため、舞踊や演芸大会も開いた。  太平洋戦争中は活動を中止。工業地帯の中核で空襲の標的となり、焦土と化した川崎で沖縄出身者の生活や就職の相談に乗るため、戦後の1946年に再開した。

(左上)沖縄返還運動に取り組む県人会の人たち=1965年ごろ、多摩川に架かる六郷橋付近で(川崎沖縄県人会提供)(右上)川崎沖縄県人会会長の金城宏淳さん=川崎市川崎区で (下)沖縄で2016年に開催された「世界のウチナーンチュ大会」に参加した川崎沖縄県人会(屋良朝信さん提供)

◆戦後は沖縄返還運動にも参加

 県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦の惨状を知り「沖縄芸能の歴史が絶える」と危機感を持った県人会のメンバーは1949年、沖縄芸能研究会を立ち上げ、焼け残った衣装や三線を持ち寄って稽古を続け、川崎の地で故郷の文化をつないだ。沖縄芸能は1952年に市無形文化財、54年に神奈川県無形文化財に指定された。  県人会は沖縄返還運動にも取り組んだ。各地で行われた返還要求の座り込みやハンガーストライキに参加。1972年5月15日に本土復帰が実現すると、「核も基地もない平和な沖縄を」とのスローガンを掲げ、川崎で復帰記念式典を開いた。  現在の会長、金城宏淳さん(74)が会の運営に関わるようになったのは返還目前のころだ。「沖縄との行き来が簡単ではない時代。踊ったり民謡を聴いたり、野球をしたり。寂しさから会を頼ってくれる県人も多かった」と振り返る。

◆現在会員は200世帯「次の世代に受け継ぐ」

 年月を重ね、川崎には沖縄の文化が根付いている。2004年、JR川崎駅前の複合商業施設「ラ チッタデッラ」を中心会場に「はいさいFESTA」がスタート。本物の沖縄文化を体験できる5月の大型連休恒例のイベントとして定着した。2013年からは沖縄の舞踊や民謡、お笑いやエイサーを楽しめる「綾心(あやぐくる)」も定期開催されている。

2014年のはいさいFESTAの様子(川崎沖縄県人会提供)

 県人会の会員で100周年記念の映像制作を担当した屋良朝信さん(74)は「首都圏で沖縄芸能が盛んなのは、川崎沖縄県人会やその周りで芸能を活発に続けてきたから」と自負する。  会員数約200世帯の県人会には現在、出身者だけでなく、沖縄に関心のある人たちも加わる。金城さんは「県人会の集まりを喜んでくれる人がたくさんいる。次の世代に受け継いでいきたい」と先を見据えた。  文と写真・竹谷直子  ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へメールでお願いします。 

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