日本と北朝鮮が5月、秘密裏に接触したと報じられましたが、拉致問題に進展はあるのでしょうか。今回、拉致被害者の曽我ひとみさんが取材に応じ、「横田めぐみさんは絶対に生きている」と証言しました。

■独自・横田めぐみさんと交わした“忘れられない会話”
若い人に拉致問題を知ってほしいと地元の小学校や中学校で講演を行っている曽我ひとみさん。
(拉致被害者 曽我ひとみさん(65))「ここに写っているのは誰でしょうか?分かる人」
(児童)「曽我ひとみさん」
「じゃあ私はどちらでしょう?」
(児童)「赤ちゃん」
「そうです、その通りです。よくわかりましたね、ありがとう」
今まで以上に救出活動に力を入れたいと4月から市の拉致被害者対策係で勤務しています。
1978年、19歳で北朝鮮に拉致された曽我ひとみさん。実は、北朝鮮で一緒に暮らした横田めぐみさんと「ふるさと」を歌っていたといいます。
(曽我ひとみさん)「人気のない山の方に散歩に出かけたりすることもたまにありまして、大きな声だとやっぱり指導員にバレてしまうので小さい声ですけど」
Q.切ないですね
「切ないですね本当に。家族にも会いたいですしね、このままずっとここなのかとか、どうしたら日本に帰れるんだろうねって」
拉致された翌日、北朝鮮の港に到着したひとみさん。その数日後です。移動させられた平壌の招待所にめぐみさんがいました。
(曽我ひとみさん)「玄関先で私を迎えてくれまして、私の妹と年齢が同じくらいなので、どうしてこんなかわいい子が、こんなところに1人でいるんだろうという疑問がすごく大きかったのを覚えてます」
その日の夜、2人はこっそり日本語でこんな会話を交わしたといいます。
(横田めぐみさん)「その膝のけがどうしたの?」
(曽我ひとみさん)「家の近くで男の人に捕まって無理やり連れて来られたの」
(横田めぐみさん)「実は私も…家の近くの曲がり角で後ろから襲われたの」
(曽我ひとみさん)「2人とも同じだね」
ひとみさんの9カ月ほど前、同じ新潟から部活の帰り道に13歳で拉致されためぐみさん。
(曽我ひとみさん)「めぐみさんは絵を描くのがすごく上手だったので、私の手を写生してくれたりして、とっても上手だったんです。勉強もすごくできて、私がたくさん朝鮮語を教えてもらいました。もちろん年下ですけども」
19歳と13歳…姉妹のように支え合いながら8カ月ほど一緒に暮らしましたが、別れが訪れます。めぐみさんは拉致された時に持っていた赤いバッグをひとみさんに手渡しました。
(曽我ひとみさん)「『私だと思って持っていって』って言ってくれまして、本当にすごく嬉しかったんですけど、ここでお別れしなきゃいけないという悲しい気持ちもありましたし」

2002年、北朝鮮はひとみさんら5人が「生存」、めぐみさんら8人が「死亡」と発表します。
(曽我ひとみさん)「日本に帰るんだったら『絶対めぐみさんもいるよね』って私はそう思い込んでいまして、でも行ったらいなかった」
空港にいたのは、めぐみさんの娘のウンギョンさん。実はこのときひとみさんが「お母さんは?」と尋ねるとウンギョンさんは「いるよ」と答えたといいます。
Q.生きているニュアンスで言っていた?
「そうですね」
Q.「別の場所にいるよ」というような「いるよ」?
「私はそう感じましたけれど」
めぐみさんは「絶対に生きている」と確信しているといいます。ひとみさんには、めぐみさんと交わした忘れられない会話があります。
(曽我ひとみさん)「めぐみさんは『私のお母さんはいつも香水の匂いがしていて、いい匂いだったんだ』とか、『私には双子の弟がいてとってもかわいいんだよ、大好きなんだ』って話をしたりとか、うちとは違うなって思っちゃって。私の母はやっぱり仕事柄、油まみれで仕事をしているので、帰ってきても油の匂いしかしていなかったので」

■曽我ひとみさん 安否不明の母とセーターの思い出
1978年、ひとみさんと一緒に近所の商店に買い物に出かけ、3人の男に襲われた母親のミヨシさん。それ以来、消息が途絶えているのです。当時、46歳だった母親のミヨシさん。朝から農作業をして、昼は工場で油まみれになって働き、夜中まで内職をする…そんな働き者の母だったといいます。
(曽我ひとみさん)「たぶん小学校の5、6年生くらいだったかなと記憶しているんですけど、友達がすごく学校で新しいセーターを着てきて、うらやましいなってすごく思って。お母さんが隠してあったお金を勝手に持ち出しまして」
ひとみさんはこの時買ったセーターを今でも大切に保管しています。
(曽我ひとみさん)「その時ばかりは母親がなぜか怒らなくて、『ひとみが1人で買うてきたんだな』って、『自分が買ってあげられないからかんねんな(ごめんなさい)』と言うんですけど、母親の方が謝ってきて、母親も泣いているし、私もその母親の顔を見て一緒に泣いて」
母・ミヨシさんの行方について拉致の実行犯とみられる女工作員キム・ミョンスク容疑者はこう語っています。
(キム・ミョンスク容疑者)「お母さんは佐渡に帰した。元気で暮らしているから心配しなくていい」
しかし、24年ぶりに帰国した日本に一番会いたかった母・ミヨシさんの姿はありませんでした。
(曽我ひとみさん)「とても会いたかったです」
北朝鮮は、「ミヨシさんは未入境」だとして拉致そのものを認めていません。
(曽我ひとみさん)「一緒に、同じ時間に、同じ場所で拉致をされて、北に入ってきていないっていうことは一体どういうことなんだろうって、反対に私が聞きたいような気持ですけど…」
ひとみさんのもとには母・ミヨシさんの生存につながる可能性がある情報も寄せられています。
(曽我ひとみさん)「(帰国した)地村さんの話だと、『もしかしたらお母さんが書いたメモかな』みたいな話をされていたんですが、もし母であれば元気でいる証拠になるので、そうであってほしいような、でも違うのかなとか」
ジャーナリストの有田芳生氏が入手した拉致被害者の聞き取り内容をまとめた文書。そこには「久我良子(or ヨシ子)」と書かれた手紙に関する地村さん夫妻の証言が記載されています。
(地村富貴惠さんの証言)「忠龍里(招待所)にいた頃、三面鏡の引き出しの中から手紙が出てきたことがある。おそらく誰かに見て欲しいと考えてそこに入れたのだろう」
手紙には、「久我ヨシ子(または良子)50代」
「70年代に革命のため佐渡から朝鮮に来た」
「〇〇〇(※カタカナ)工場で勤めていた」
「主人は交通事故で亡くなった」
「26歳の娘がいて結婚している」
などと日本語で書かれていたといいます。曽我ミヨシさんと年齢など違っている点もありますが、「佐渡」という地名や「工場」で働いていた点、夫が「交通事故」にあった点などが一致しています。また、北朝鮮に拉致された疑いが排除できない特定失踪者のリスト約470人の中に、「久我ヨシ子」という名前の人はいません。

■「かあちゃん、今どうしていますか?」

地村富貴恵さんは招待所の世話係から「その女性は直前まで生活していた人でその後、韓国人漁師と結婚した」と聞いたといいます。
北朝鮮に向けて家族のメッセージを届けるラジオ放送「しおかぜ」。ひとみさんは、母・ミヨシさんにこう呼びかけました。
(曽我ひとみさん)「かあちゃん、今どうしていますか?元気でいますか?もうすぐ佐渡は桜の季節になります。いつも、いつも優しかったかあちゃん。1日も早く佐渡に帰ってきてください。私たちはいつまでも、いつまでも待っています」


6月16日『サンデーステーション』より

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