1995年に起きた国松孝次(たかじ)警察庁長官(当時)狙撃事件で、犯行を「自白」していた中村泰(ひろし)受刑者(94)=別事件で服役=が亡くなった。警視庁公安部は「オウム真理教の組織的テロ」と総括したが、容疑者は特定できず、受刑者の死で事件を検証する術(すべ)は失われた。記者が受刑者と重ねた手紙のやりとりや当時の捜査員の証言から、警察トップが狙われた前代未聞の未解決事件が残したものを考える。(木原育子)

 警察庁長官狙撃事件 1995年3月30日午前8時半ごろ、国松長官(当時)が東京都荒川区南千住の自宅マンションを出た所で狙撃された。4発中3発が腹などに命中し、瀕死(ひんし)の重傷を負った。犯人は自転車で逃走。長官は奇跡的に命を取り留め、2カ月半後に公務に復帰した。

◆東大中退→警察官を射殺したとして服役

現金輸送車襲撃事件で取り押さえられ、パトカーに乗せられる中村泰受刑者(中央)=2002年

 「お悔やみ申し上げるといった気持ちは毛頭ない。彼のために命を失った人も、重度の障害を負った人もいる。優しい言葉などとてもかけられない」。中村受刑者の死を受け、警視庁捜査1課の元刑事、原雄一さん(67)は、そう突き放した。取り調べを担当した原さんは、長官狙撃事件は中村受刑者の犯行だったと確信している。  どんな人物だったのか。中村受刑者は1930年に生まれ、幼少期を中国・大連で過ごした。戦後に東京大理科2類に進学し中退。56年に東京都内の路上で職務質問した警察官を拳銃で射殺したとして服役、76年に仮出所した過去がある。  95年3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生し、その10日後に警察庁長官が狙撃された。警視庁公安部長をトップに捜査が始まり、2004年7月にオウム関係者が逮捕されたが、処分保留で釈放され、不起訴になった。

◆偽名で何度も渡米して射撃訓練、銃を密輸入

オウム真理教の関連施設で、小さなビンをビニール袋に押収する防毒マスク姿の機動隊員ら=1995年

 一方、その数年前から東京や大阪で手口が似た拳銃の事件が相次ぎ、02年11月に名古屋市で現金輸送車を狙った事件が発生。現行犯逮捕された中村受刑者の調べが進む中、03年7月に3都府県警合同で、三重県名張市の関係先を捜索すると、狙撃事件への関与をうかがわせる膨大なデータなどが見つかった。その後の捜査で中村受刑者が偽名で何度も渡米し、射撃の訓練を受け、銃を密輸入していたこともわかった。  原さんは「取り調べは長期に及んだ。当初は徹底抗戦の姿勢だったが、徐々に心を開いてくれた。頭の中にあることは、ほぼ言わせた印象を持っている」と振り返る。ただ、中村受刑者が逮捕されることはなく、10年に公訴時効を迎えた。  18年から警視庁を担当した記者は、オウム幹部らの死刑が執行されたのを機に、狙撃事件を取材し直した。同年秋から19年にかけて複数回にわたり、岐阜刑務所で服役中の中村受刑者と手紙のやりとりを重ねた。

◆「世界で最初の化学兵器テロ、再発防止できなかった」

中村泰受刑者から記者宛てに郵送された手紙

 最初の手紙で「あなたが撃ったのか」と単刀直入に問うた。「私が原捜査官に長官狙撃の当事者であることを認めた最大の動機は、公安部がオウム関係者4人を強引に逮捕したことです。このままでは冤罪(えんざい)になりかねないと危惧したからでした」と返ってきた。  別の手紙には「私が供述なり証拠の提示なりをしたのは、問題を公開の法廷に持ち出して、警察の怠慢の責任を糾弾するためでした」との言葉も。1994年に松本サリン事件が起き、翌年の地下鉄サリン事件を防げなかった警察に対し、「世界で最初の化学兵器テロに遭遇しながらも、その再発を防止できなかったこの怠慢を弾劾できるのは我々以外にいなかったからです」とつづった。  中村受刑者は英語、中国語、スペイン語に精通し、手紙から知識の豊富さもうかがえた。一方でパーキンソン病を患い、文字は所々震えた。「当方あまり体調がよくありません」との弱音も。老いたスナイパーの最晩年の言葉だった。

◆当時25歳の受刑者は「警察に敵意を持った」

麻原彰晃容疑者(当時)を乗せ、「第6サティアン」を出る警察車両=1995年5月16日、山梨県で

 中村受刑者はなぜ警察にこだわったのか。  記者への手紙には、原点は、1955年から続いた砂川闘争だと記した。中村受刑者は当時25歳。旧米軍立川基地の拡張に反対した住民運動で多くの学生が逮捕された。「警察に敵意を持った」と明かした。  中村受刑者から手紙が送られてくることもあった。2019年の「文芸春秋」新年号で、国松長官が「撃たれたことによって全国警察が一丸となって奮起した」と述懐したことに触れ、「当方の作戦が見事に奏功した」と喜んだ。

◆「捜査をストップさせられた」消えない悔い

 ただ、「こちら特報部」の取材に応じた原さんは首をひねる。「長官を狙撃した動機をオウムに対する捜査を奮い立たせるためといった世直し的な正義感を語るが、詭弁(きべん)ではないか。自分を美化するところがあるから。彼は人を信じず、協力者をも利用する。本当のところは、最初の服役で人生を台無しにされたという警察に対する単純な逆恨みだと思う」  捜査には延べ約48万2000人が投入された。10年の公訴時効に際し、当時の公安部長は立件できなかったオウム真理教の団体名を挙げ「信者のグループにより敢行された計画的、組織的テロであった」とする異例の捜査結果を公表した。後継団体が起こした民事訴訟で、警視庁は後に敗訴した。

捜査を継続できなかった無念を語る元捜査員

 この幕引きに、中村受刑者の捜査に加わった元捜査員は、「目の前で人が刺されているのに、警察官が近くでぽかんと黙って見ているような状態。ありえなかった」と今も憤っている。「中村受刑者を立件できなかったこと、捜査をストップさせられたことは今も悔いているし、悔いは生涯消えない。社会は許さないということを、新聞に残しておきたかった」と報道機関の取材に初めて応じた。

◆上がオウムと決めつけ…「警察の正義って何なのか」

 中村受刑者の捜査は、特別捜査本部ではなく、公安部と刑事部による別動捜査班で進められた。この元捜査員によると、非協力的な公安部と違い、刑事部側は全ての資料を見せるなどして信頼関係をつくり、最後は現場一丸になったという。それでも、「どれだけ証拠を積み上げても、上がオウムと決めつけ譲らなかった」と元捜査員は証言する。「警察の正義って何なのか、今も考え続けている」  「日本の公安警察」の著書で、警視庁公安担当だったジャーナリストの青木理氏は「狙撃事件の捜査は何もかも失敗だった。そもそも公安部に捜査の主導権を委ねたのが間違いだった」と事件を総括する。

起訴取り消しを巡る訴訟で国と東京都に賠償が命じられ、東京地裁前でガッツポーズをする大川原社長(右)=2023年12月

 「見込み捜査」と指摘される手法は、問題視されている。青木氏は軍事転用可能な機器を無許可で輸出した容疑で逮捕され、初公判直前に起訴が取り消された「大川原化工機」(横浜市)事件と重ね合わせる。「公安部が増強した外事部門の存在意義を示すため、再び無理な捜査をした。オウム以外の捜査を尽くさなかったことも大川原化工機事件も、政治的な見込み捜査に傾きがちな公安であるがゆえに起きた」

◆「公安出身の警察官僚と政治が異常なほど一体化」

 さらに「公安部門出身の警察官僚と政治が異常なほど一体化し、特定秘密保護法や共謀罪法、経済安保法など公安警察がほしくてたまらなかった治安法を次々に成立させた。どう考えても健全ではない」と語り、狙撃事件の公訴時効後の第2次安倍政権と菅政権を通じて確立した「警察政権」の現状を危惧した。  来年は地下鉄サリン事件や警察庁長官狙撃事件から30年。旧統一教会問題における被害者救済など、社会の宗教への向き合い方はなお問われている。宗教学者の島薗進氏は「冷戦後の世界では、宗教や民族が紛争の要因になる傾向があり、宗教と暴力、宗教と平和を問う意義は増している。日本でも宗教を避けるのではなく、現代文明の行方に関わるものとして正面から考える必要がある」と話した。

◆デスクメモ

 1995年を思い出そうとすると記憶にもやがかかる。地下鉄サリン事件が起きた路線は大学までの通学経路。長官狙撃の現場に近い川にかかる空は灰色に見え、すぐ隣の座席にテロの犯人がいるかもしれない、と身構えた。社会を覆う不安が生んだ幻想が、捜査の行く手を阻んだのか。(恭) 

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