◆主人公は、高さ43メートルの「日光太郎杉」
大型連休の合間の平日、世界遺産の日光東照宮を訪れた。あいにくの雨。とはいえ、霧雨煙る杉林の中に立つ荘厳な社殿は趣がある。肌寒く足元も悪い中、コロナ禍の移動規制が解除され、インバウンド(訪日客)が戻っている影響か、外国人をはじめ多くの人が参詣していた。日光東照宮の入り口に立つ太郎杉=栃木県日光市で
境内に至る道の入り口付近の杉林にその巨木はある。歩道が途切れた国道120号沿いギリギリに立っている。境内への導線から数十メートル離れていることもあってか、この杉を顧みる観光客は見当たらない。 木の脇にある看板によれば、樹齢約550年、高さ43メートル、太さ5.75メートル。「老杉群の中で、この樹が最も大きく優れた姿であることから『太郎杉』と呼ばれている」とある。杉林の中に溶け込み、遠くからは目立たないが、近くで見るとその存在感に粛然とする。◆増える観光客…道路拡張のため、伐採計画が
この木が切られようとしたのは、1964年の東京五輪直前のことだ。日光東照宮の陽明門=2017年撮影
五輪によって増える観光客に対応するため、国道を拡張しようと、栃木県が太郎杉を含む周辺の土地収用を決めた。国もこの事業を認めた。しかし、この行政処分を不服とした東照宮は、処分取り消しを求めて宇都宮地裁に訴えた。 提訴から5年後、同地裁は訴えを認め、処分を取り消す判決を出す。73年の東京高裁も地裁の判断を支持し、判決は確定。太郎杉は伐採を免れ、今に残った。◆判決の結論はどのように導かれた?
裁判では、自然を基にした「文化財」の保護か「道路建設」を優先するのかという主な争点に加え、判決では、事業を認めるに至った行政の判断過程を詳細に審査して結論を導いた。 県や国は、道路の拡張で交通量の増加に対処しようとした。ただ、そうして得られる「公共の利益」は、失われる自然や文化的価値を上回ることが前提となる。そして、その判断の合理性、妥当性について考慮を尽くさなくてはいけない。 判決は、こうした枠組みを示しつつ、太郎杉を含む周辺の土地を「日光国立公園の表入り口にあたり、太郎杉を中心とした巨杉群が景観としては屈指」とし、事業により、「完全に破壊されるに至ることは必定」と判断した。◆「ひと度失われれば復元させることは困難」
一方、交通事情を改善する計画に高度な公共性を認めつつ、「目前に迫っていた東京オリンピックの開催に間に合わせるため、事業費を安くかつ工事期間を短くするために決定された」とその判断過程を批判。「土地の適正かつ合理的な利用に寄与するとはとうてい言い難い」と断じた。 さらに、「本件土地の有する文化的価値は貴重なもので代替性がなく、ひと度失われればいかに高額の費用をかけても人間の創造力のみによって復元させることは困難」と自然の尊さを説き、行政の拙速な計画を戒める。 「道路拡幅の必要性を最も安易かつ安価な方法で満たそうとするに急のあまり、失われる国民共通の利益ともいうべき景観的・風致的・宗教的・歴史的・学術的文化価値の重大さを見失ったものといわれても仕方がない」◆関与した裁判官「現場にも行き、太郎杉の幹を触りました」
確定判決が出た東京高裁の裁判に関わった裁判官に話を聞くことができた。日光太郎杉事件を振り返る元裁判官の大石忠生弁護士=東京都内で
現在、東京都内の法律事務所に在籍する大石忠生弁護士(92)。東京家裁所長や高松高裁長官を歴任した人物だ。東京高裁での裁判は判決まで4年を要し、大石氏が関わったのはそのうち1年程度だったが、裁判官人生の中でも印象深かったと述懐する。 「行政庁を納得させるには、しっかりした理論武装をしないといけない。説得力あるものにしないといけないと話し合った。現場にも行き、太郎杉の幹を触りましたね。判決を書いた裁判官は立派だと思います」 当時は高度経済成長期の真っただ中。全国で盛んに道路建設が行われた。時代の流れに一石を投じた判決と言える。「失ってはいけないものがある、経済優先だけでは駄目だ、という気持ちが判決の背後にあったのでしょう。行き過ぎはいけないと。そういう面で司法のあり方を示した」 大石氏は判決は意義深いものだとかみ締める。「行政庁の判断が全て正しいというわけではない。国民の福祉、幸福と必ずしも一致しない。司法判断として裁判所の役割を果たす、貴重なものだと思う。今の司法関係者にもぜひ思い出してほしい判決ですね」◆判決の存在感は今も…しかし行政訴訟は易しくない
日光太郎杉事件の判決は現在でも、行政訴訟における「リーディングケース(先例となる判例)」とされている。 早稲田大の岡田正則教授(行政法)は「高裁判決ではあるが、後に最高裁が判決の枠組みに取り入れた。行政の裁量について、重要な指針を与えたと言える。特に都市計画に関する行政訴訟では間違いなく参照される判決だ。裁判所が行政処分の審査をする水準を上げた」と解説する。 ただ、現在も行政訴訟で住民側が勝訴するケースが多いわけではない。岡田氏は「行政訴訟で証拠となる環境評価や審議会の内容といった資料は基本的に行政側が作成している。住民側が行政側の不利な証拠を出すのは難しい」とした上で、「行政側が敗訴する判決を書くには、裁判所は行政側に不利な証拠も出させなくてはならず、時間も労力もかかる。裁判官がそこまでやる気になるかどうかという面もある」と話す。◆「国は自然保護や生物多様性の重要性を訴えるが、かけ声だけ」
日光太郎杉事件の判決は、沖縄県の米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を巡る訴訟でも引用されたことがある。米軍新基地建設にカヌーに乗っての海上抗議まで行われた沖縄県名護市辺野古沖=2019年撮影
2016年、最高裁への上告受理申立理由書の中で、辺野古・大浦湾の環境は一度失われると回復は難しく、「日光太郎杉事件の判決がなしたとおり、重視すべき自然環境について考慮を尽くしたか、その軽重についての判断に誤りがないか判断すべきだ」と訴えた。 しかし、最高裁は県の上告を棄却した。沖縄県側の代理人を務めた加藤裕弁護士は「太郎杉を守った時のような価値にわれわれ社会が重きを置くなら、辺野古の埋め立ては容認できないはずだ。当時の判決が示した判断枠組みは残っているが、その価値は引き継がれて浸透しているとは言えない」と残念がる。 加藤氏は1973年の判決を評価しつつ、多くの人がより文化、歴史、自然の価値の重みを共有しなければ、その意義は今に生かされないと訴える。 「国をはじめ自然保護や生物多様性の重要性を訴えるが、かけ声だけで本当に広まっているとは思えない。昨今は外交や防衛、安全保障と言えば、何でも押し通せるような雰囲気を感じる。こういう司法判断があったことを継承して魂を入れないと、日光太郎杉事件の判決は生かされない」◆デスクメモ
東京・明治神宮外苑の貴重な樹木を切ってまで超高層ビルを建てる必要があるのか。大阪での多数の街路樹の伐採計画は妥当なのか。そんな疑問の声を「こちら特報部」は取り上げてきた。太郎杉を巡る東京高裁の判決。半世紀前に鳴らされた経済優先への警鐘を忘れてはならない。 (北) 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。