カンボジアで不騒動産業を営む日本人女性
カンボジアの首都プノンペンにオフィスを構えるリアグローバル社。代表を務めるのは日本人女性、奥田けいこさん(37歳)だ。
不動産業を中心にカンボジアに来る日本人向けに様々なサポートやアドバイスを行っている。
カンボジアは今でこそ日本からたくさんのビジネスパーソンが訪れる国だが、少し前までは海外を放浪するようなバックパッカーか慣れた観光客しか訪れる国ではなかった。
それもそのはず、十数年にわたる内戦の影響が色濃く残り、外国人観光客が増えたのは1990年代以降だからだ。
奥田さんはそんなカンボジアで今、自分の会社を構える起業家だ。
だが、ここまでの道のりは決して平坦なものでないことは想像に難くなく、幾度とない「人生の転機」に決断をしてきた。
奥田さんの原風景は宮城県石巻市にある。
祖父は代々続く米屋を営み、父は港湾の仕事をしていた。
特に学業に厳しいという家庭環境ではなく「勉強をしなさい」と言われたことはなかったという。
小さい頃から勉強は好きで、自然と成績は伸び、仙台の進学校への推薦入学を決めた。
奥田さんの最初の大きな転機があったのが、この高校進学だった。
入学式の日に「あっ、違うな」と思った
「『あっ、違うな!』と思ったのが入学式の日でしたね。友達を作ろうと思って教室のドアを開けた瞬間、みんな参考書を開いて勉強しているんです。初日ですよ。その瞬間に私はとんでもないところに来たんだってなりました」
進学校であれば、当然の出来事なのかもしれない。だが、石巻の田舎ならではの時間と雰囲気の中で育ってきた奥田さんにとっては、衝撃の光景に映った。
勉強は嫌いではないし好きだが、すべての時間をそれだけに費やすというこの感じが自分自身には合っていないと感じながら高校生活を過ごすことになる。
そんな学校生活の中、高校2年生の夏にカナダのバンクーバーへの短期留学に行くチャンスを得た。たった数週間の短期留学。
この経験が後の礎となった。
編集部のインタビューには、カンボジアのオフィスで答えてくれた「初めて飛行機に乗ったんです。それで雲の上から街を見た時に『なんだ。自分の悩んでいる世界は小さいな』って思って。高校と教室がすべてで、勉強漬けの毎日に悩んでいたことが些細なことだって思えたんです。それに、机に向かって学んできた私の英語はいざとなったら全然出てこないし、ホームステイ先の家は綺麗な芝の庭で、私の部屋は地下のフロアにあるし、なんだか新しい世界を知った気持ちになりました」
わずか数週間の留学だったが、奥田さんの心には大きな影響を与えた。
カンボジアからYouTubeなどを通じて情報発信も行う(写真:奥田けいこさん提供)
「センター試験失敗」という大きな挫折
朝5時台の電車に乗って高校に行き、夜は10時まで勉強。帰国してからも学校生活は変わることなくひたすら勉強を続けた。
そして迎えた高校3年の冬、センター試験(現・大学入学共通テスト)当日。
「小さい頃から算数が好きで、数学に傾斜配点をかけていたんです。でも数学の答案用紙を表にめくった瞬間にプレッシャーでもう問題が解けなくなって。手が震えて何もできなかったんです」
呆然としたままセンター試験は終わった。
その時の様子を母は後に「これまで見たことがないような表情で帰宅したよ」と語ってくれた。
いい大学に行くことが絶対だと言われ勉強を続けてきた。けれど、このセンター試験の失敗ですべてが終わったと感じていた。
高校では「進学クラスの恥」とまで言われ、先生には浪人をすすめられる。
だが、奥田さんにはもう試験のために勉強する気力も残されておらず、目指していた薬学部は諦め、自分が好きだった建築学科のある大学に進んだ。
大学に進学してからは「すべての呪縛」から解き放たれたかのように外に向けて活発的に活動するようになる。
「もうバイトと海外旅行の繰り返しでしたね。お金を貯めては友達と海外に行きと、そんなことをずっと繰り返してました。20カ国ぐらいは行ったんじゃないかな」
行き先を決め、3カ月後の旅券を購入。それまでの3カ月間は必死にバイトした。
海外旅行のきっかけは留学した友達に会いにいくことだったが、次第と海外を見て回ること、日本との違いを発見することが楽しくなってきた。
大学の夏休みや冬休みを使っての旅行だったが、次第に「バイトではなく、自営でお金を稼いだほうがいいのではないか」と思うようになってきたという。
20歳で「iPhoneの販売代理店の会社」を自分で作った
「会社員になったら海外に行っている時間なんかないし、でも稼がなくちゃ旅行にいけないしって思った時に『じゃあ、自分で会社を作るのはどうだろう』って発想になったんです。それで20歳の時に親にも相談して会社を作りました」
両親にも出資してもらい資本金100万円でつくった会社は、iPhoneの販売代理店だった。
当時、iPhoneを日本で販売していたソフトバンクの研修会に行き、個人販売の資格をもらい開業。
アメリカでiPhoneが爆発的に売れ、すでにスマホが生活に溶け込んでいるのを間近で感じ、「日本でもこれは売れる」と確信していたからこそ、すぐにそれを実行に移せた。
そうして見事、奥田さんの予測通りiPhoneは日本でも人気商品となった。
ここで奥田さんはさらに営業のセンスを発揮する。
「ゴルフが面白そうだなと思ってゴルフ場や打ちっぱなしに通っていたんです。昼間は来られる人も限られてるので、そこに来る経営者の人たちとも仲良くなっていろんな話を聞くようになりました。そこからですね。いろいろな人を紹介してもらい、法人営業にいったりして、すごく売れたんです」
大学生として誰に教わるわけでもなく、この営業を自然と行えたというのはまさにセンスがあると言っていいだろう。
会社の業績はあがり、お金が貯まれば海外へ行く。当然、バイトなんかしているよりもずっと大きな収入があるので余裕もある。
時間も自らの裁量で作ることができるので毎週末にはゴルフ場で経営者仲間とコースを回っていた。
大学生起業家として順調な日々を送っていた。
会社を手放し、就職を選んだ理由は?
だが、奥田さんは会社を手放し、就職することを選ぶことになる。
「親からは大学を出て普通に就職してほしいと言われて。今みたいにフレキシブルな働き方がまだ許される感じでもなかったので……。でも、やりたいと言ったことは叶えてくれる両親だったから、私も応えないとと思ったんです」
自分の会社は売却し、自身は就職の道を選んだ。
惜しむらくは当時、奥田さんにはM&Aの知識がなく、業績も順調だった会社を資本金と同額の100万円で手放してしまったことだった。
もし、きちんとした専門家がついていれば、もっと高値で売り抜けることもできただろう。
かくして奥田さんは就職活動に入ることとなる。
「特にこれがやりたいとか、大企業に就職したいとかなくて、雇用する側の目線で自分には何ができるかなと探していましたね。この時は自身で会社を経営してきたり、ゴルフ仲間の経営者の方たちに話を聞いていたことが就職活動ですごく活きたかなと思います」
大学卒業後は横浜に出て、注文住宅を設計する部署に配属された。
大学時代、海外旅行やゴルフというキラキラした面があると同時に、実はもう一面では、大学では作業着でコンクリートを練り、構造強度の勉強をしていた。
大学受験に疲れていたとはいえ、勉強はもともと好きで現場作業を学ぶのも楽しかったというわけだ。
社会人1年目で感じた疑問、そして地元石巻が被災
だが、社会人になり早くも奥田さんには、ひとつの疑念が生まれる。
「頑張っても頑張らなくても同じ給料だから、なんか時間がもったいないなと思ってしまって」
それもそうである。奥田さん自身は学生時代に自ら営業に回り、売り上げをあげて稼いできた。自身の頑張りがそのまま自分の給与に反映することを経験している。
だからこそ、企業の一社員としての日々はしっかりこなすものの、どこか空虚なものに思えた。
そしてこの頃、大きな転機と出来事が2つ起きる。1つは結婚。そしてもう1つは東日本大震災だった。
震災により甚大な被害に遭った地元、石巻。
不幸中の幸いで家族はみな無事だったが、祖母の家が流されたりと大変な状況となった。
奥田さんは震災当日のことを鮮明に覚えているという。
「普段はブランドものには興味ないのですが、その日は銀座にあるお店に夫と結婚指輪を見にきていたんです。そしたらズドンって音がして、窓ガラスが割れて……。指輪は買わずに、少し落ち着いたところで急いで帰宅したら、テレビで地元の石巻が大変なことになっていると知ったんです」
結婚指輪選びという幸せの最中での災害。しかも家族のいる地元が大きな被害に襲われている。もう気が気ではなかった。
「テレビの映像から目を離せなくなって、他のことが何も手につきませんでした。家族と連絡がついたのは3日後でした。すぐに地元に戻ろうって決めましたね」
夫が同郷だったこともあり、決断までの時間は早かった。
そして引き戻されるかのように原点の石巻に戻り、復興の現実と向き合う中で、再び自身で会社を立ち上げる準備を始めることになる。
学生時代とは違い、今度は準備期間に時間とお金も要することになった。
家族のために環境をしっかりと現地で下調べも入念に行う(写真:奥田けいこさん提供)
そして「カンボジア」で新会社を設立
カンボジアで設立した奥田さんの会社のオフィス「地元に戻って子どもが生まれて、子育てが始まりました。同時に復興の現状を見ながら、いろいろ思うことがあって。当たり前のことなんですけど、一生で何度も買わないような家や車ですら、モノってこんな一瞬でなくなってしまう、消えてしまうんだなって思って。悔いが残るくらいならやりたいことは今やろうと思って。それで思い切って海外に出てみようってなったんです。人生の中で他の国で暮らす時間があってもいいなって。ちょうど、子どもにも日本語以外に、英語と中国語を学んでほしかったので」
こうして、奥田さんの新会社は、海外に拠点を置くことになる。
学生時代、稼ぎながら飛び回っていたあの頃の気持ちが再燃し、今度は家族、子どもたちと一緒にカンボジアの地へと降り立つことになる。
*この記事の続き:「ツテなしコネなし海外起業」37歳女性の大胆人生
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