ライバルが消えたと思いきや…
995年、藤原道長の兄・道隆と道兼が相次いで死去します。それぞれ、関白にも就任していた兄たちの突然死は、道長にさらなる出世の機会を与えたといえるでしょう。
ちなみに道隆の死因は、深酒が原因の糖尿病、道兼は疫病だといわれています。『大鏡』には、道隆・道兼兄弟の死だけではなく、同じような時期に、左大臣の源重信や中納言の源保光、大納言の藤原朝光といった公卿7・8人が相次いで死んでいったと記されているのです。同書はそれを「稀有」としています。そしてその稀有なことが、道長の幸運だとも書いているのです。
それはなぜなのでしょうか。もし、兄たちがもっと長生きしていたら、トントン拍子で道長が出世の階段を駆け上ることはできなかっただろうと『大鏡』は説いています。
とはいえ、道長のライバルが完全に消え去ったわけではありません。道隆の子・藤原伊周も叔父である道長とバトルを繰り広げた人物です。
道長(叔父)と伊周(甥)。この2人にまつわる逸話も『大鏡』に記されています。
その中に、2人の競射(弓争い)の話があります。道長の父・兼家の死後は、道隆が政治の実権を握っていました。道隆の後継はその子どもである伊周だと思われていたこともあり、伊周は内大臣にまでなっていたのです。つまり、道長は、甥よりも下の官位だった時期があったのでした。
ある時、伊周が南院に人々を集めて、弓を射て遊んでいました(そこには道隆もいました)。
するとそこに、道長が現れます。道隆は(思いがけぬことよ。嫌な奴が来た)と内心思いますが、その気持ちは封印して、礼儀正しい態度で道長に接してしました。
道隆は、官位が低い道長に先に弓を射させました。道長VS伊周。最初の競射では、伊周が2本とも負けました。(このままでは息子の面子が立たない)とでも思ったのでしょう。道隆は「もう2回、勝負せよ」と言ったのです。
道長は兄の言葉を聞いて不愉快に感じながらも、「それならば、延長なさいませ」と同意しました。道長は続けて矢を放とうとします。その時、道長は「この道長の家から、帝と后が出るならば、この矢よ、当たれ」と言って、矢を放ったのです。
すると、見事、弓は的の真ん中に命中しました。次は、伊周が射ることになったのですが、気後れしたのでしょうか。手が震えたのか、弓を放つも、的に当たりもせず、見当違いの方向に飛んでしまいます。
父・道隆の顔は、その光景を見て真っ青になりました。道長はそんなことも気にせずに、2矢を放ちます。今度は「私が摂政・関白になるものならば、この矢よ、当たれ」と言いながら、矢を放つと、またしても先程と同じところに命中したのでした。
こうなると、場は白けてきます。伊周が負けじと矢を射ようとしたのを、道隆が「なぜ、射るのか。射るな、射るな」と激しく制止したので、場は一層、白けてしまったようです。
道長は、矢を返し、その場を悠々と退出しました。道長は弓が得意であったと『大鏡』は記しています。
この勝負は、道長の威風や、道長が弓を射る際に発した言葉、それらに伊周が臆してしまったことが、道長勝利の要因だったといえるでしょう。
道長の人相がやたらと褒められる
さらには、このようなエピソードも『大鏡』にはあります。
円融天皇の女御となった詮子(藤原兼家の娘)の法事のときに、飯室の権僧正のお供として、人相見の「供僧」が来ていました。
その人相見を女房たちが取り囲み、各々の人相を見てもらっていたところ、ある女房が「内大臣(道隆)殿の人相はいかがでしょう」と言い出したのです。
道隆が建立した京都・積善寺(写真: ogurisu_Q / PIXTA)するとその人相見は「道隆様は実に偉い人相です。天下をとる相でございます。しかし、道長様こそ、真に立派な人相というべきでしょう」と答えます。
続いて、粟田殿(藤原道兼)の人相を尋ねると「こちらも実に立派でございますな」と人相見は話します。ところが、またしても「しかし、道長様こそ、まことに優れた人相をお持ちです」と続けるのでした。
次に、伊周の人相について質問がありました。「こちらも大変、尊い人相をお持ちでございます。雷の相をお持ちですね」と、人相見は話します。
「雷?」と人々が不思議がると「雷はいっときは高く鳴りますが、後は続きません。ですので、伊周様の晩節がどのようなものになるか……。やはり、道長様こそ、素晴らしい人相のお人です」と人相見は答えるのです。
ここまで“道長推し”が強調されると、人相見は道長に買収でもされているのかと、半分冗談でツッコミたくもなりますが、とにかく、人相見はことあるごとに道長の人相を持ち上げるのでした。
周りにいた女房たちも、私と同じ想いを抱いたのかもしれません。「道長様はどのような人相なので、そのように、お言い添えになるのですか」と人相見に尋ねます。
人相見は「人相の書物には、人相の第一は『虎子如渡深山峯』(猛虎が辺りをにらみまわしつつ、高き奥山の峰渡りをする様)とございます。道長様の人相は、これと同じなのです。
また、道長様の容貌は、毘沙門天(仏法を守護する天部の神。四天王の1人)の威勢を見るようです。このような理由で、道長様の人相が、誰よりも優れていると言ったのでございます」とはっきりと答えたといいます。
ライバルである伊周の人相は?
『大鏡』も同様で「名人の人相見だ」と評しています。そして「伊周殿は、内大臣まで順調に出世されたので、人相見は最初は良いと言ったのでしょう。しかし、伊周殿に雷はもったいない。雷は地上に落ちたら、再び空に上がりますが、伊周殿はそうではありませんでした。星が地上に落ちて隕石になった(再び天に上がることはない)と表現したほうがよいでしょう」と続けています。
平安時代後期に成立した歴史物語『大鏡』は、藤原道長の栄華を中心に描いていますから、道長礼賛になるのは仕方ありませんが、隕石に例えられた伊周が少し可哀想に思えてくる話です。
(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。