意外と身近な場面で活用されている「ナッジ理論」
スーパーマーケットのレジ前で、足あとマークと矢印を見かけることはありませんか。特に何も書かれていなくても、私たちは、そこに並んでレジ待ちをします。
実は、これがナッジ理論によって促された行動なのです。
「ナッジ」(nudge)とは、そもそも「肘で軽くつついて注意を促す」ことを意味します。「ナッジ理論」とは、小さなきっかけを与えることで、ヒトの行動へ変容を促す理論のことです。
スーパーマーケットの足あとマークや矢印が、「肘で軽くつついて注意を促す」ナッジです。その足あとマークに気付いたことで、空いているように見えるレジに行くのではなく、足あとマークに沿って並ぶ行動に変わるのです。
ナッジ理論の基本は、あくまでも本人が自発的に行動を変えることにあります。促されていても、何を選択するかは本人の自由であり(割り込みをするという行動もある)、自らが選択するからこそ、そこに自己責任が生まれます。
ナッジ理論を知るには、まず行動経済学を知ることが大切です。行動経済学とは、簡単に言えば、人の行動を基にした心理学と経済学を融合した学問です。
行動経済学が研究される前は、「人は何か意思決定をする際は、理にかなった選択(=合理的な選択)をする」ものと考えられていました。しかし、現実には、そこに様々な人の心理が作用することで、必ずしも合理的な選択をするとは限らないことがわかってきたのです。
たとえば、たばこの害を知っていても禁煙できない。ダイエット中にお菓子を食べてしまう。こういった事象は、私たちの身の周りにたくさんあります。
多様な「バイアス」が不合理な選択を招く
このような、なぜ合理的な選択をしないのかを研究しているのが行動経済学であり、その原因の1つとして挙げられるのが、「バイアス」です。「バイアス」とは、思考のクセとも言われます。
たとえば、自分はAという考えを持っているとします。自分のAという考えを正当化したい、受け入れて欲しいという心理が働き、それに賛同している人の意見ばかりを集めてしまいます。Bという反対意見の情報を見つけても無視したり、都合よく解釈をしたりします。
このような思考のクセを、確証バイアスと言います。
バイアスは、数百あるとも言われており、とくに以下の6つが代表的なものとして挙げられます。
①確証バイアス…無意識のうちに、反対意見を無視して自分の都合のよい情報ばかりを集めて立証しようとする②正常性バイアス…危険な状態にあるにもかかわらず、"自分だけは大丈夫"と都合よく解釈する③集団性同調バイアス…集団と同じ行動を取ることで、自分もみんなと同じであるという心理的な安堵を無意識に選択する④権威バイアス…権威がある人が発言することは、正しいと思い込む⑤後知恵バイアス…ある出来事や物事の結果について、その結果をあたかも最初から予見していたかのように振る舞う⑥投影バイアス…無意識のうちに、現在の状況を過剰に反映して、今後の予測が的確にできなくなるこのようなバイアスや、人の思考のクセがどのような行動を引き起こすかを研究したり、分析したりする学問が行動経済学であり、その思考のクセを活用して行動変容を促そうと考えたのが「ナッジ理論」となっていったのです。
次に「ナッジ理論」を活用した英国の取組みを紹介します。
英国では、長年たばこのポイ捨てが街の環境を害していることに悩んでいました。そこで、ある環境団体がナッジ理論を活用したキャンペーンを行ないました。
サッカー界のスーパースターであるメッシとロナウドのどちらが最高の選手か、2人の名前を入れたゴミ箱(吸い殻入れ)にたばこの吸い殻を入れて投票するというものです。
サッカーファンがポイ捨てをやめた理由は
どちらのファンも、応援する選手のゴミ箱に吸い殻を入れていくので、たばこのポイ捨てが減りました。ゴミ箱への「投票」が、環境改善につながったのです。
サッカーファンの行動を行動経済学の視点で分析し、思考のクセ(自分が応援する選手が世界一と思っている)から、「投票」というちょっとしたきっかけを与えることで、行動を変えた(ポイ捨て→ゴミ箱に入れる)のです。
この投票は、街の環境が改善される社会的に望ましい行動です。ナッジ理論は、その人の利益になることや社会的に望ましい行動へ変容させることが、基本的な考え方です。
逆に、実は本人の利益にならないことや、望ましくない行動への変容を促すもの(不必要なものを購入してしまう)は、ナッジではなく、スラッジ(sludge:下水の悪臭)と言います。ナッジ理論を活用する際には、その人にとってよりよい選択をしてもらうためにあるのだということに留意しましょう。
ここまで、ナッジ理論について説明をしてきましたが、ナッジを実際に活用するのは難しいと感じる人もいるでしょう。
ナッジを活用するためのポイントを、英国のBIT(英国政府内の省庁と連携している専門チーム)が、「EAST」というフレームを提唱しています(図表1)。
(『企業実務4月号』より引用)※外部配信先では図表を全部閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください
また、この「EAST」で、よりよい方向へ行動変容を促す具体的な手法として、「FIND CAMPS」があります(図表2)。実際に、仕事をするうえでナッジを活用しやすいシーンとしては、部下の育成などの人材マネジメントが挙げられます。
(『企業実務4月号』より引用)たとえば、図表2の行動変容ツールの1つに「フィードバック」があります。
フィードバックは適切なタイミングで
まず、フィードバックのタイミングです。フィードバックは、可能な限りスピーディーに行なうことが必要です。
たとえば、仕事でミスをしてしまったとき、すぐに上司に叱られたり、指摘を受けたりすると、以後は二度とミスをしないよう心がけるでしょう。
しかし、そのミスを指摘されず、トラブルにもならないまま、しばらくして、「そういえば……」と、上司に言われても、正直「えっ、いまさら言われても」と感じてしまい、反省や改善の意識は生じにくくなります。
これは、よいことを褒めたり承認したりするときも同じです。フィードバックのタイミングを適切に行なうことも、ナッジと言えます。
ほかにも、部下に計画どおりに仕事の目標を達成してもらうためにナッジが活用できます。
私たちは、計画を立てて行動しようとしても、それがすぐに結果に結びつかないと、計画を先延ばしにしやすい傾向があります。
これは、「現在バイアス」と言われるものです。「現在バイアス」とは、目標達成(将来の喜び)よりも、目先のことに目がいってしまう思考のクセのことです。マネジメントでは、この「現在バイアス」を利用して、先延ばしができない状況をつくり出します。
具体的には、目標を細分化して、小さい単位の目標に行動を結び付けます。また、その目標を達成した際にはインセンティブを与えるのもよいでしょう。
さらに、部下が尊敬の念を持っている人から、賞賛のメッセージを送ってもらうといった方法もあります。このような状況をつくり出し、行動を先延ばしするという選択肢を、本人のなかからなくす(先延ばしをしない行動の習慣化)ようにしてしまうのです。
さまざまな場面で実績を挙げるナッジ理論
ナッジ理論は様々なところで活用されています。行政では、八王子市の大腸がん検診等の受診率増加に向けたアプローチが有名です。
『企業実務4月号』(日本実業出版社)書影をクリックすると企業実務公式サイトにジャンプします大腸がん検診を受けていない人への案内文を、利益よりも損失をアピールする内容に変更することで、受診率を7%アップさせました。これは、「人は、得をすることよりも、損をすることを回避する傾向(損失回避)がある」ことを応用したナッジです。
また、ある病院では残業対策として日勤と夜勤の人の制服の色を変えました。残業中の人の制服は、ほかの人と色が違うことから残業が可視化され、抑制されるようになりました。
このように、行動経済学やナッジ理論を少し知るだけでも、私たちの仕事やその環境を「よい方向に変化」させることが可能なのです。
どうぞみなさんも、「ちょっと肘をつついて気付かせる」ナッジを考えてみてください。
大石 英徳(おおいし ひでのり)*公式サイトはこちら大学卒業後、大手総合人材会社の株式会社テンポラリーセンター(現パソナ)に入社。大手企業を中心に営業およびスタッフフォローを担当する。そこでの経験を活かし、以後一貫して人材領域でのコンサルティングに従事。顧客の課題解決に注力し、アクティブアンドカンパニー参画後は、人材開発の領域で階層別をはじめとする各種研修の企画から運営・実施までを手掛ける。
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